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最後の恋(2000年新風舎[TILL]6号特選)

 カーテンを閉め切っていても暗い部屋の中で耳を澄ますと、雪が下界に降りる気配が伝わってくる。
 増蔵は軋む腰を叩きながら布団を抜け出ると、ひょろ長い体を折って、炬燵と壁の間に潜り込んだ。増蔵の背中で擦られた壁はそこだけがすっかり色が変わってしまって、影が染み付いてしまったかのようだ。
 電気をつけても薄暗い茶の間である。増蔵は瞼を細めて注意深くリモコンのスウィッチを押した。若い女性リポーターが膨らみ始めた上野の桜の下で桜の花に負けないような笑顔をふりまいている。
 布団に潜っていると、このまま時間が止まってしまう錯覚に襲われる。リモコンのスイッチを押して画面から光が漏れ、音が茶の間に流れ出すと、今朝も生きていたか、と増蔵は実感する。
 カーテンを開けば、村ごとすっぽり雪に埋もれている。今日も雪かきをせねばと思うが、膝が疼いてどうにもならない。
 節くれだった乾いた指で両膝に交互に触れてみる。水を抜いたばかりなのに、膝頭はぷっくりと盛り上がり、そこだけが赤ん坊の肌のような柔らかさだ。
 猫がにゃぁと欠伸をして布団から顔を出した。
 女房が死にかけの猫を拾ってきたのも、今と同じくらい雪が積もっていた日だった。女房が倒れたのはその翌日のことだった。猫も一緒に連れて逝ってしまうと思ったが猫だけは奇跡的に回復した。きっとお父ちゃんが寂しくないように、と女房が何かをやらかしたのだ。増蔵はそう思った。
 拾って来ると女房は猫に名前をつけたが、増蔵はそれを思い出すことが出来ない。
 増蔵はどてらを着込み膝を押さえてお勝手に立ち、熱いほうじ茶を入れた。
 店のガラスをコツコツ叩く音がする。
 はて、誰だべな、と店の先を覗き込んだ。すると向かいの家のヒデヨだった。身振り手振りで鍵を開けろ、と言っている。
 「今日は店がなかなか開かんから死んでるんじゃねぇかと思ったべ」
 ヒデヨは手ぬぐいの雪をはらって安堵とも怒りともとれる溜め息を漏らした。
 「膝がどうにもならんで、よう動けんのよ」
 増蔵は角刈りの白髪を撫でまわした。恐縮した時についつい出てしまうこの癖は、子供の時分にヒデヨに指摘されたものだ。
 「お前さん、スズエちゃんが死んで、あっという間にじじぃになりよって。前の雪はねてやるからスコップ貸せ」


ヒデヨは増蔵と同級だ。ちびのくせにやたらと気が強く、男連中を泣かせることもあった。増蔵は体も大きかったし活発で、仲間内では一番の人気者だった。たばこ屋のキミちゃんも、村長夫人のハルさんも初恋の相手は増蔵だった。ヒデヨだってそうだったのである。
 仲間内で一番体が大きかった増蔵は、一番ちびだったヒデヨをからかったものだ。どこかの牛が難産だとなれば、増蔵はよく駆り出された。子牛を抱え上げた屈強な肉体も、二十歳で結核を患い命拾いして以来、別人のように衰えていった。子をひとり授かっただけでも儲けものと増蔵は思っていた。酪農の道から外れ、薬屋の主人に収まって正解だった。
 増蔵は結核を患い徴兵を逃れた。ヒデヨの旦那はスマトラで戦死した。ヒデヨは村の人々に支えられて立ち直ったのだった。


 ヒデヨときたら、腰こそ曲がってますます小さくなりはしたが、八十を目の前にして相変わらずきびきびと動き回り、雪かきをすればスコップいっぱいに雪を盛り上げ次々とはね上げる。
 昨日もヒデヨが雪かきを買ってでてくれた。そうでなければ降り続く雪は木造の小さな家を、丸ごと閉じ込めてしまったかもしれない。
 「うちはいいけんど、自分の家を先にやってけれ」
 「真美子にやらせっから。雪かきひとつ出来なんで。これだから都会の娘っ子はの」
 ヒデヨは皺が深く刻まれた口元を歪めた。
 「孫はまだかね」
 「生きているうちにはと思うけんど。おらが代わりに生みたいくらいだべ」
 小さな牧場を営むヒデヨの息子は、四十を過ぎてやっと結婚した。こんな田舎で一生、牛の尻を見ながら暮らす女など、今の時代そういるものではない。ところが都会の若い女の中にはテレビの見過ぎか、北海道の田舎暮らしに憧れる者がいるそうで、札幌の見合い相談所に申し込んできた東京育ちの真美子とめでたく結婚した。
 増蔵は真美子を思った。
 炬燵に入っていると、向かいの家の玄関先まで見通すことが出来る。時折、雪かきをする真美子を覗き見ることが出来る。華奢な真美子がスコップを握り、ボタ雪の山を見上げ、途方に暮れている様子を見ていると、呼吸を忘れそうになる。まるで寝床から抜け出ることの出来ないヨボヨボの老いた虎が、ほんの目の前にいる獲物をもの欲し気に見ている。そんなところだろうか。


 「お前さんも店を閉めて、札幌行った方がええんでないの?一人息子がせっかく面倒見るって言ってくれてんだもの。街に倉庫みてえな薬屋出来たから、店開いているだけもったいないべ」
 「孫はめんこいが嫁に気ぃ使うしの」
 「まぁ、好きにしれや。お前さん村の役員会来れねぇべ。あさってだが」
 ヒデヨは増蔵の後ろに掲げてある暦に視線を移した。
 増蔵は焦ってほうじ茶の入った湯飲みを手から滑らせた。猫のしっぽに熱いお茶がこぼれて猫はぎゃっと声をあげ、暗いお勝手にすっとんで行った。
 「あ、あぁ、見てけらいやこの膝を」
 増蔵は暦から視線を逸らせようと、ももひきを膝の上までたくし上げた。
 「ありゃ、また水たまってんの。それじゃ痛むわ」
 ヒデヨは増蔵の膨らんだ膝頭を、人差し指で押した。
 任せろ、とでもいう風に手ぬぐいを巻き直すと、ヒデヨはいっそう激しさを増す雪の中へ出て行った。
 増蔵は暦を見上げた。4月1日が赤いペンで囲ってある。2日と4日、6日は黒いペンで囲ってある。赤いペンで囲ってあるのは真美子が店に買い物に来た日だ。その日はハンドクリームと風邪薬を買って行った。黒いペンで囲ってあるのは茶の間から真美子を覗いた日なのだ。ヒデヨは知る由もないが、やはり後ろめたい。
 増蔵には気にかかることがあった。
 ここのところ、暦に赤いマルがない。赤いマルは真美子が店でコンドームを買った日だ。
 増蔵は軋む背骨を何とか捩って、寄りかかっていたタンスの引き出しを開けた。そこには真美子が向かいの家に嫁に来てから破った暦が、ぎっしり収められている。嫁に来て5年である。増蔵は自分でもどうかしていると思う。見れば、赤いマルが書き込んであるのは昨年の12月の頭である。
 (コンドームは1ダース12個入りだし、週に1度としてももう買いに来ても良さそうな頃だが)
 歳が歳で早く子供を作った方が良いものを、コンドームを買う真美子である。この5年の間ずっとそうだった。さすがに単品で買うことはないが、時には絆創膏の箱の下に隠したり、時には湿布と一緒であったりした。
 増蔵が初めて真美子を見たのは、結婚のお祝いムードも鎮まってきた頃だった。増蔵はスズエの葬式が終わると、ばったりと寝込んでしまった。
 増蔵に気を使って披露宴を延期しようという話が出ていたが、増蔵が承知した上で披露宴はとり行われたのである。
 真美子は店に薬を買いに来ても知らんぷりだった。
 「向かいに嫁に来た真美子と言います。よろしくお願いします」
 そのくらいあってもよさそうなものだ。所詮、都会育ちの女はそんなものなのか。33になってろくに挨拶も出来ないのだ。向かいの息子はべっぴんさんに目が眩んで早まったな、と増蔵は思ったものだった。
 都会に暮らせば男が放っておかないだろうに、見合いまでしてこんな田舎の酪農家に嫁いでくるのが不思議である。ヒデヨに聞けば真美子は東京生まれの東京育ちで、大学を卒業して大手のコンピューター会社でソフトとやらの開発に携わっていたそうだ。無機質な生活に疲れを感じ、田舎でのんびり暮らすことに憧れるようになったのだという。昔の日本画美人のような楚々とした風貌は村にはいない女だ。大抵、べっぴんは性悪だと増蔵は思っていた。
 増蔵の真美子に対する思いが変わっていったきっかけは、コンドームだった。
 街へは車で1時間もかかる。村の商店街はひなびているが、それでも日常生活には事欠かない。肉屋、魚屋、八百屋、電気屋、たばこ屋、文房具屋、駄菓子屋、そして増蔵の薬屋。小さな村だ。街の大きなスーパーの買い物袋から大根がのぞいていた日には、次の日には八百屋の耳に届くところとなる。共存していかなくてはならない。街で買い物をしない、というのは暗黙の了解なのである。
 店にコンドームは置いてあるが、そう数は多くない。村は年寄りばかりだし、コンドームを買ってまで楽しむ人間はこの村にはあまりいないようだ。
たばこ屋の嫁に5人目が生まれたと聞いた時、コンドームを使わんからじゃよ、と呟いたものだった。
 真美子がコンドームを買いに来た時、増蔵は心の中で語りかけた。
 「婆さんに早く孫の顔を見せてけらっせ」
 他の女にだったら言えただろう。たばこ屋の嫁には言ってやった。
 「出産祝いはコンドーム10ダースでいいかの」
 真美子には言えない。多分、湿布の下に忍ばせたのがコンドームだと分かったその瞬間から、真美子を完全に女として意識してしまったのだ。レジを打つ指先が震えたのを覚えている。あらぬ想像をしてしまったのである。夜の寝室で押し問答する夫婦の姿が、勝手に脳裏に割り込んで来る。
 スズエが死んでから日が浅いというのに。立ち枯れても男は男か。でも思うだけなら良いではないか。どんなに欲望が鎌首をもたげても、肝心な下半身の鎌首はもたげるどころかうなだれたまんまだ。
 真美子が嫁に来て5年の間、真美子と挨拶以外の言葉を交わしたことは無いに等しい。
 増蔵は真美子と例えご近所としてでも、親しくなるのが怖かった。他人と打ち解けることを拒んでいるように見えたし、いつも何か不満そうに眉間に皺を寄せている。
 変に親しくなってコンドームを買いにくくなったら、真美子はコンドームはもちろん、薬さえ買いに来なくなるのではないか。わざわざ街まで出ていくかもしれない。
 だからこそこの5年間、高鳴る思いをどてらの懐に隠し、素知らぬふりをしてきた。


 「ごめんください」
 布団に潜りこもうとした増蔵を、女の声が呼び止めた。増蔵は膝を摩りながら店をのぞいた。
 そこには白いダウンコートを着込んだ真美子が立っているではないか。増蔵はいたずらが見つかった子供が慌てて後始末するように、万年床を茶の間の隅に押しやった。
 「私、用事があって釧路まで行くんですけど、病院まで乗せて行きましょうか」
 いつものすました真美子ではない。微笑みさえ浮かべている。
 「お義母さんに言われたかね」
 「いえ、今朝お義母さんが増蔵さんの膝の調子が良くないから雪かきに行って来ると言っていたものですから」
 「はぁ、じゃ乗せてってもらうんべか」
 増蔵は慌てて洋服箪笥から、普段は着ないセーターを引っ張り出した。洋服箪笥の上の、小さな写真立てに収められたスズエが増蔵を見下ろしている。
 「スズエ、堪忍な」
 増蔵は写真に小さく手を合わせた。 
 猫の姿はどこにも見当たらなかった。


「酪農の仕事もゆるくないべ」
「そうですね、朝も早いし」
 増蔵は斜め後ろから真美子の首筋を見ていた。ほくろがひとつある。真美子はハンドルを握って前を向いたままだ。白い手の甲に青く細い血管が浮き出ている。あの手の中にコンドームの箱は収まっていたのだ。
 真美子にとって増蔵は、向かいの薬屋のおじぃさん、それだけだ。それなのに今自分は、真美子の首筋に触れたい衝動にかられている。増蔵は年甲斐もなく興奮していた。
 「ヒデヨさん、きついかもしれんが悪気はないんじゃ。素直にしていれば可愛がってくれるはずだがの」
 何かを話したくて探した言葉だったが、真美子は押し黙ったままだ。これはいけなかったか、と増蔵は首を捻った。良く考えてみればこれでは真美子が素直ではない、と言っているように聞こえる。
 「旦那さんとは仲良くやっとりますか」
 またしても真美子は何も答えない。前を向いている真美子が眉を吊り上げているか、そう思うと増蔵は車から飛び降りたくなった。
 道路の両脇は除雪された雪が壁となって空さえ遮っている。真っ白な世界だ。増蔵の頭の中も真っ白だ。
 真美子はぐんぐんとアクセルを踏む。
 「私、家を出るんです。4月のうちに」
 「は?」
 「離婚です、離婚するんです」
 お買い物に行くんです、と言う調子と変わらないような、あまりにもあっさりとした口ぶりだ。
 「ヒデヨは何も言っとらんかったが」
 「言いにくいんじゃないでしょうか」
 「合わんかったか」
 「のんびり田舎暮らしなんて甘かったんですよね。朝は早いし、3度のご飯支度はお義母さんがぴったりくっついて気が休まる暇なんてないし」
 子作りはどうだったんだい、と増蔵は心の中で呟いた。
 「子供なんて要らないって思います。これじゃ」
 増蔵の心臓がどくんと大きく波打った。真美子に心中を見透かされたような気がしたのだ。増蔵は頭のてっぺんを摩った。
 「主人はお義母さん寄りだし、結局、いつまでたっても私はよその人間だったんですよね。知らない土地で暮らすのはもっと簡単な事だと思っていました」
 ここのところ、ヒデヨのしゃがれ声ばかり聞いている。初めて聞くといってもよい真美子の音程の高い張りのある声は、増蔵にとっては天からのお告げのようにさえ思える。
 雪の壁を抜けると、白銀に覆われた湿原が開けた。雪はやみ、雲の切れ間から差し込む陽の光の下、数羽のタンチョウヅルが神様からの置き土産のように佇んでいる。
 これ以上に神々しい様は、世界中の何処をさがしてもあるはずがないと増蔵は思う。
 「東京に帰るんかの」
 「えぇ」
 「このきれいな景色ともお別れというわけですか」
 「やっぱり私には東京の方が合っていたみたいです」
 真美子の言葉を聞いて増蔵は、あっ、と声を漏らした。真美子は神がかりとも思えるこの景色を、美しいと思ったことはあっただろうか。見れば誰もが心泡立つような感動を覚えると増蔵は思っていた。真美子の目にはこの景色は、何もないだたの寂しい荒れ地にしか映らなかったかもしれない。真美子の心そのもののように。
 (この歳まで生きてきて、何も察してやれんとは…)
 首まわりがちくちくとむず痒い。気慣れぬセーターのせいなのだ。首元を引っ搔きながらこの5年を後悔していた。
 (わしが気を使ってやれば、もっと近くにいられたのに)
 増蔵は力が抜け、座っているのが辛くなった。
 「ちょっと横になっていいんべか」
 増蔵は後部座席のシートに身を崩した。
 「えっ、具合が悪いんですか」
 真美子は湿原を突っ切る一本道の中程で車を停めた。
 運転席と助手席を割って身を乗り出した真美子は、横になった増蔵を覆いかぶさるようにして覗き込んだ。
 シャンプーか石鹸のいい匂いが車のヒーターの暖かい風に乗って、増蔵を包み込む。後ろで束ねていた長い髪がほつれ、骨の浮いた増蔵の頬にはらりと触れた。
 何やら尻がむず痒い。へその下が熱くなってきた。増蔵はぎゅっと目をつむった。
 「増蔵さん、増蔵さん、大丈夫ですか」
 ここは大湿原。車は滅多に通らない。よぼよぼでも真美子を抱えることくらい訳無い。抵抗するだろうか。今の真美子ならば冗談として笑ってくれるかもしれない。
 「やだ、どうしよう。とにかく急ぎますね」
 「は。あの、いや…」
 「我慢して下さいね。と、と、飛ばしますから」
 真美子は舌をもつれさせてまくし立て、最後まで言い終わるか終わらぬうちに、車を急発進させた。
 はずみで増蔵の軽い体は弾き飛ばされ、ドアに頭を打ち付けると、運転席と後部座席の間に転がり落ちた。


 店の引き戸に手をかけたが、戸はびくともしない。出掛けている間に再び凍ってしまった。
 水を抜いて少し楽になった膝で踏ん張って戸を引くと、薄暗い店の奥から鈴を鳴らして猫が駆け出して来た。
 「おう、お前何処に隠れていたんじゃい」
 増蔵はセーターを脱いで、丁寧にたたむと箪笥にしまいこんだ。写真の中の小さなスズエが、笑いを堪えているような気がした。
 厚手の肌着にももひき、その上にどてらといういつもの格好に着替え、熱いほうじ茶をいれて炬燵に潜った。増蔵の腕にするりと乗って来た猫は目を細めて喉を鳴らしている。
 この冬、最後になるかもしれない雪はすっかり晴れて、陽の光に反射する雪の白さが目に痛い。
 東京の桜が散って北海道の桜が咲く頃、増蔵にとって真美子は、思い出の中の住人でしかなくなる。
 「おい、一緒に札幌行くか?」
 猫は増蔵の腕を抜けて、座布団の上に丸くなった。増蔵はほうじ茶を一口すすって横になった。
 「それにしても、思い出せねぇなぁ、お前の名前」
 増蔵は猫の背中を摩りながら目を閉じた。



 


 
  



 


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