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微睡む森の主

突発書き下しssの、加筆修正版(22.3.25Twitter掲載)


彼女は一角の獣に妻にと請われた。

その昔、彼女の属していた小国で、未曾有の大飢饉が発生する兆しを見せていた。国を治める者共が日夜解決策を模索していたが、劇的な変化をもたらす術はなく、王は嘆き、神に願い伝えました。
(どうか我が国を、愛する民をお救い下さい)

国はずれの小さな農家に生まれた彼女は、自然を愛し、家族を敬い、優しい心根を持っていた。そんな彼女が、落穂を拾っていた時のこと。小さな嘶きが聞こえ顔を上げると、彼女の眼前に、一角の角を携えた、それは美しい神獣が佇みました。

物語でしか存在を知らない神獣の突然の来訪は、小さな町、果は小国全土に響き渡るまで時間はかかりませんでした。

土に汚れた指先を、どうにかこうにか形になったカーテシーをとる娘を神獣は愛おしげに見つめ言いました。
『そなたを、我妻に請う』

神獣は、よく響くテノールで申しました。

まもなくこの国に飢饉がやってくるのだと。それは神の望まざるもの。水と豊作を司る我の力の衰えか、嘆かわしいが仕方なく。妻を娶る事にしたと。

愛しい家族を守るため、健康な心の彼女は喜んでその請いに応えた。
神獣は大層喜びました。
しかし、彼女を娶るには、試練が立ちはだかると言う。
それは『ワタシの森に来るまでに、3度の試練に立ち向かい、それでも清い乙女であれ』という。
誘惑に負けず、怠けずに、従順であることを望んだ。

ーーそれで、この国が救われるのなら。父と母が飢えることがないのなら、喜んで試練を受け入れ、貴方様の妻になることを喜びましょう。

天馬が地を経ってすぐ、国の使者が彼女と家族の元へ訪れた。神獣との婚姻に、出来うる限りの支度を王城でというのだ。
家族は急いで支度をし、年の離れた兄ふたりにはここで別れを告げることになった。

城についてすぐの事、彼女はこの国1番の針子が作った、真っ白の衣服に身を包んだ。今まで薄汚れた古布しか身に纏うことがなかった彼女にとって、それは幸福であった。

出立に向けて、途中で倒れては行けないと、王宮で進められた、柔らかなパンを口にした。美味しさで気が遠くなったのは初めてだった。

遠い旅路と思われてふかふかの柔らかな寝具に身を委ね、眠る喜びに朝が来なければいいと思ったことは今までになかった。

最愛の両親に別れを告げ、柔らかく鞣された皮の丈夫な靴を履き、彼女はこの世の幸福を一身に受けて旅立った。



 深く烟る森に入り、柔らかなけもの道を踏みしめた。手元にあるのは不思議なカンテラ。細くつづく紫煙が、彼女を森の奥へと誘った。燻されているのは魔法の鉱石、神獣様と同じ透き通った紫色をしていた。
足を取られながらも進んでいくと、一面を黄金色に染める、金の花の丘が広がっていた。
ーーこんなに美しい景色は見たことがない。ひと房あれば、お母さんもお父さんも、あの美味しい食事が食べられただろう。兄さんたちにも、暖かい寝床や服があったかもしれない。
思い出す家族の顔に胸が潰れる想いだったが、彼女は止まらず進んで行った。
森はまだまだ続いていく。


 もう幾度日が落ち月が昇った事だろう、鬱蒼としげる森は不思議と明るく、彼女は時間を感じることがなくなっていった。
もとより細くしなやかな足は、痛みを超えて感覚をなくした。ピカピカと光っていた靴は、泥と土に汚れてしまったが、それでも彼女の足を守り続けていた。
それでも、疲弊し冷えきった彼女の表情は青白く、体力は限界に達しようとしていた。

汗と霧で張り付いた前髪をそっと指で剥がしながら顔を上げると、そこには巨木に空いた虚があった。
彼女の華奢な体なら、悠々と休めだろう広さで、落ち葉のしかれたその中はまるで彼女を誘っているようだった。

ーー、いけない。怠けてはいけないと、神獣様は仰った。
彼女は朝露に濡れた葉から、少しの水を受けると、また細く伸びる紫煙を辿り歩き始めた。


だいぶ奥まで来ただろか、それでも鬱蒼としげる森に終わりは無く、今はもう霞む視界の中で、カンテラの紫煙を見分けるのも辛いこと。体力の限りをすり減らし、彼女は気力だけで進んで行った。


『えーんえーんいたいよーいたいよー』

久しく聞いた他人の小さい声にビックリしながら足元を見ると、小さな白い菫が泣いていた。
よく見ると、葉の片方が折れていた。
娘はその場にしゃがみこみ、優しく葉を撫であやしてやった。

『……ありがとう。優しい子。泣いて疲れて、喉が渇いたわ…』
菫が悲愴な声を上げるので、彼女は近くの湖から、両手に水を救い、花の根元にかけてやった。

菫は彼女に礼を言い、このまま一緒に居ようと囁いた。
しかし、彼女は首を振った。
『疲れた体を癒してから、先に進んだってバチは当たらないわよ』
ーー神獣様に怠けないようにと言われたわ

『汚れた足を拭ってから行ってもバチは当たらないわ』
ーー湖を汚すのは気が引けるわ

『私があなたを気に入ったと言うのに、それでも私のものにならないの?』
ーーごめんなさい、私は神獣様のものよ

『どうして、愛してる訳でもないくせに、私はあなたを好み愛しているのに』
ーー私は清く勤勉で、彼の妻になるためにここまで来たの。私は私を裏切れないわ


嘆く菫をどうしたものかと悩みながら、彼女はカンテラを持ち上げる。すると、紫煙は空を示し、菫と共に天を仰いだ。


『我が花嫁よ、たどり着くと思っていたよ』
一角の天馬が空を蹴り、羽のように降り立つと、彼女の疲れ切ったからだを支え、汚れた足を自らの口で慰めた。ボロボロになった靴は役目を終えたと言わんばかりに、彼女の足から離れていった。

菫はそれを歯がゆく見つめることしか出来ず、彼女は菫に見られていることに恥ずかしくなって顔を背けた。赤く染るその頬を、天馬が優しく撫でてやりながら告げる。

『恥ずかしいなら摘み取って、君の髪を飾っても良いのに』
神獣の低い声が鼓膜を揺するが、彼女は首を横に振った。
ーー菫を手折ることはしたくない。

『ならば場所を変えよう』
と、天馬は彼女を背に乗せて、その場を飛び立った。

その場に残ったのは深い霧と、1本の白い菫。
見送ることしか出来ない、乙女を思って、菫は泣いた。
どうせなら、絹の服のように、彼女に纏って欲しかった。
どうせこのまま枯れるなら、彼女の髪にひと時でも触れたかった。折れてしまった片方の葉に残る彼女の施しを、菫は忘れることなのなど出来ず、ただただ彼女の幸福を祈るばかりだった。


菫は土に還り、また咲いて、千の夜が超えた頃、微睡む湖の主になった。


おわり

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