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彼女も普通の女の子だった : 映画『ロスト•イン•トランスレーション』

2003年に公開された映画『ロスト•イン•トランスレーション』。リバイバル上映された年末に渋谷の映画館は、1日1度の上映ということもあり多くの観客で埋まっていた。

監督はソフィア•コッポラ。本作はデビュー作『ヴァージン•スーサイズ』に続く2作目の長編映画である。『ヴァージン•スーサイズ』では美しく儚い少女たちの姿を描き、日本でも「ガーリー•ムーブメント」の象徴的作品として人気を博した(実際は女性達の社会的抑圧を辛辣に描いた作品であったが)。本作もソフィア•コッポラ=ガーリー映画というイメージを持った上で観ると、やはりスカーレット・ヨハンソンが演じる若く魅力的な女性シャーロットが印象的だ。

(c)2003, Focus Features all rights reserved

仕事のため来日した映画スター、ボブ•ハリス。慣れない環境、言葉の壁に疲れきった彼は同じホテルに宿泊していた女性シャーロットとホテルのバーで出会う。深い関係を持った二人は東京の街で数日間を共に過ごす。
とても美しい映画だが、一応付け加えるとボブには倦怠期の妻と帰りを待ち侘びている子どもがいて、毎日のように妻と電話やファックスでやり取りをしている。シャーロットには新婚の夫ジョンがいて、夫の仕事に同行している真っ最中である。
なのでストーリー自体は全く美しくない。美しくないのだが、2人の間に流れる静けさが設定の不誠実さと東京の騒音を包み込んで優しく整えている。

静寂をかき消す東京の街

本作は海外で高い評価を得ているが、日本ではオリエンタリズムであるとバッシングを受けた。映画で描かれる東京の街はソフィア•コッポラが感じた西洋的視点で見る東京のイメージを詰め込んで作られたどこか誇張された東京の姿である。常に人が溢れ、騒然としているネオンが輝く街。冒頭のジョーがタクシーの窓から街を眺める場面。疲れ切った眠たい表情から身を起こし窓の外を眺めるシーンはとても印象的だが、東京はこんなに眩しく看板が光る街だったけ、と考えてしまうほどにギラギラ光るビルの看板が並んでいる。
ソフィア・コッポラが東京で持ったイメージは夜の街を照らす眩い光と賑やかな音だったのだろう。のちの会見では劇中の東京は自分が旅行者として訪れたときに感じたことが投影されていると述べている。友人となったボブとシャーロットがゆったりと会話をするバーは居酒屋のように騒がしく、2人の会話をかき消してしまう。ホテルのプールで泳ぐボブが息継ぎで顔を上げるたびに、大きな声で運動をする人々の声が響く。シャーロットが入ったゲームセンターは耳を塞ぎたくなるほど爆音で音楽が流れる。ギターを弾いたりリズムゲームで踊る人々の姿は、コロナ禍にゲームセンターが減少したとはいえ現代にも残る東京のイメージだ。

映画で2人が宿泊しているホテル、新宿のパークハイアットはソフィア・コッポラが来日した際に頻繁に宿泊したホテルだったそうだ。ホテルの雰囲気を気に入りホテルの中に引きこもっていたという。バーでは夜になっても演奏者の歌声が響き、朝になるとロビーに多くの人が集まる。賑やかな新宿に聳え立つラグジュアリーホテル。彼女もシャーロットのように窓に座って街の景色を眺めたり、部屋のライトに飾りをつけて遊んだりしたのだろうか。
ソフィア•コッポラは映画公開時の会見でごちゃごちゃした新宿の街並みと、空中に浮かぶ島のような美しいホテルの静寂な空間の対比が興味深く感じたと伝えている。この会見が行われた場所は劇中の記者会見シーンと同じパークハイアットの一室であった。

PHOTO: T.C.D. / VISUAL PRESS AGENCY / AFLO

ジョーの前に降り立った天使

映画の終盤になって気がついたのだが、私はシャーロットの名前を最後覚えることができなかった。シャーロットはボブのことを名前で呼ぶため何度もボブの名を聞いていたのだが、ボブがシャーロットの名前をあまり読んでいないそのためシャーロットの名前を気にしてさえいなかった。劇中でシャーロットが映る場面は多くあるものの、あくまでもジョーを引き立たせるための脇役なのか。そう感じくるくらいにシャーロットはぼやけた存在であり続けたように見える。

ソフィア•コッポラはこれまでに幾度も男性目線で女性を描いといることを指摘されてきた。前作『ヴァージン•スーサイズ』では五人の姉妹を近所の少年たちの視点で描いている。本作もその一つだ。映画序盤でボブの目に映る明るく芯のある人物像は、作品上で設定されている支えがなく将来に迷うシャーロットとは違って見える。2人の距離が縮まるにつれてシャーロットはボブに弱音を吐き出すようになるが、ボブ自身は深く踏み込むことには消極的だ。出会ったときからずっとボブにとってシャーロットは疲れ切った暗い生活から一時的に太陽の下へと導いてくれる天使のような存在だったのだろう。シャーロットと一緒にいれば退屈することがない。妻との生活も初めは楽しかったというボブの台詞からも伝わってくる。帰国してシャーロットと離れることを名残惜しく感じたのも元の生活に戻りたくないという現実逃避であった。
だがシャーロットにとってはボブはボブでなければならなった。たまたまバーで寂しそうにしている男性が映画スターでたまたま自分が夫に放置されて寂しい思いをしていたから、仲良くなれるかもしれないと思い声を掛けた。ボブを外出先に誘うときも、友達と遊ぶついでに寂しそうな知り合いを連れて行こうとしたのだろう。当初は新たな友人を楽しませようとしているように見えたが、ボブが楽しめているか気にしながら気遣う様子は彼を純粋に心配しているようだ。東京に来た当初は1人で街を歩いても楽しめないくてつまらなそうにしていたシャーロットが、ボブと遊んだあとはなんでも楽しく感じてしまう。一緒に遊んだ友人たちの存在もあったがジョーと駆け抜けた東京の街に対する思い入れが大きかった。終盤では1人で街を散歩していても十分楽しそうな表情を浮かべる。ボブの天使として創られた彼女は、彼に聞かせた自身の物語以上に描かれることがなく、ボブが必要とする人格の中で生き続けた。帰国するボブがタクシーから降りてシャーロットを追いかける場面では最後に泣きそうな顔になるシャーロットが印象的だ。
連絡先を交換することもなくプラトニックな関係であった二人。たとえボブが日本にもっと長く滞在してもこれ以上の関係になることはなかっただろう。

シャーロットと出会うことで辛い異国の仕事が楽しい思い出に変わっただけでなく、当初の予定になかったバラエティ番組に出演するほど心境に変化を得たボブ。シャーロットがボブに与えた経験や変化を考えると、最後までボブがシャーロットに何かを与えることはなかった。ボブと出会う前の生活に戻り、ボブと過ごした記憶を思い出しながら一人で街を歩き、夫の帰りを待つのだろう。彼女はボブのためのシャーロットとしての役割を全うし終えたのだ。

(c)2003, Focus Features all rights reserved

「女の子は誰でも写真に夢中になるの」

ベットの上でボブに弱音を吐く場面。ここで初めてシャーロットはボブに自分の本当の姿を見せた。年の離れた男性の前で背伸びをして見栄を張っていた若い女性が等身大の姿を見せることはボブに対する深い信頼の証であった。
ソフィア・コッポラが撮る映画は、映像の中で写真的な構図が多く見られる。フォトジェニックな映像をパズルのように組み合わせて作られる映像はどの場面を切り取っても美しい写真作品として成り立ってしまう魅了があるのだ。

(c)1999 by Paramount Classics, a division of Paramount Pictures. All Rights Reserved.

2003年、本作の公開と同時期に彼女は小さな写真集を発売している。写真家としても活躍する彼女が脚本にこの台詞を入れたことは大きな意味を持つだろう。
「物書きになろうとしたけれど文章を書くのが下手くそだし、写真を撮ろうとしても面白くもない写真ばかり 女の子は誰でも写真に夢中になるの 馬を好きになるように」
そんなシャーロットに「君なら何も心配はいらない」とつまらない返答をするボブ。やはりシャーロットはソフィア・コッポラ自身なのだろう。映画とファッションの業界で活躍する両親を持ち、美しく才能を期待され、それでも自分が何をするべきかわからないと悩む若き日の自身の姿をシャーロットと重ねている。

参考
•シネマトゥデイ「ソフィア・コッポラ『ロスト・イン・トランスレーション』」2004年5月31日
•ユリイカ 2013/03 特集=ソフィア・コッポラ

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