真綿の荊#1

 これは、あくまで個人的な私小説に過ぎない。だから、過去の記憶を頼りに描き出す心象風景をつらつらと文章にしていくので誰かを喜ばせよう、だとか辛い過去を聞いてほしい、とかそんな意図は全くないことはまず伝えておこうと思う。
 何かの縁あってこの文章があなたの目に触れたならば、それはきっと呼び合ったのだ。私の中の何かと、あなたの中の何かが。とは言え、あなたと私は別の人間なのだから、どうかこの散文を読んでも傷つかないでほしい。
 これはあくまで、私の傷痕の旅路に過ぎないのだから。

 子供の頃から書くのは好きだった。
 本を読むのはもっと前から好きだった。初めて迷子になったのが長崎の本屋さんだというから筋金入りである。本と名が付けばなんでも読んだ。幼稚園の頃は絵本スペースに陣取り、休み時間も帰る間際までも読んでいた。何度も何度も、全ての本を読みつくしても、何度も何度も。小学校に上がってもそれは変わらなかった。図書館の本を山のように借りては読み漁り、借りた本を記録した図書カードは毎年十枚綴りを超えていた。ファンタジー、ミステリー、推理、偉人伝、図鑑、歴史書、ホラー。手あたり次第なんでも読んだ。そんな私は、小学4年生のクラブ活動で文芸部に入り、当たり前のように小説を書き始めた。
 最初に書いたのはコメディ。原稿用紙20枚くらいの短編だったが、周囲には好評だった。それに気を良くしたのか、ただ書きたかっただけなのか。私は月に100冊を超える本を読み、月に一本の小説を書いた。主にはコメディだった。恋愛はよくわからなかったし、推理小説は難しすぎた。小学生には圧倒的に様々な知識が不足していた。だから私は、図鑑や専門書もよく読み漁った。博物館や美術館に行くのも好きだった。全てのインプットはアウトプットに繋がる。誰に教えられることもなく、私はそれを知っていた。書くたびにぶつかる壁を壊すために、私は本を読み、知識を求めたのだった。

 なぜ本が好きになったのか、と問われるとわからない。本の世界に浸ることで様々なことを忘れられたから、というのは小学校に上がってからだ。では、なぜ本を好きでい続けられたかと問われたなら、そこにははっきりとした理由がある。漫画以外の本であれば、教育に熱心だった親が無限に買い与えてくれたからだ。しまいには読書すら「遊び」と捉えられてしまうほどの本の虫になったが、それまでは「本を読むのはいいことだ」という大人の思い込みで一度に15冊程は買ってもらうことができた。親にとって想定外だったのは、その15冊の本を私が一日で読んでしまったことだろう。ただ、親にとって幸いだったのは私が気に入った本を何度も繰り返して読むことだった。何度も、何度も。シャーロックホームズとドリトル先生シリーズは擦り切れるまで読んだ。これはゲームもそうで、気に入ったものは何十周もする。だからこれはもう、そういう性格なのだとしか言えない。世の中にはたくさんの本があって、それらをたくさん堪能したいのに、私は気に入った世界にずっと閉じこもってしまう人間だったのだ。

 本が好きで休み時間も人と遊ばずずっと本を読み、委員会は図書委員。成績は上の中。習い事が多く、洋服はいつもカスタムメイドとくれば、どんな子供をイメージするだろうか。私は恐らくそのイメージに当てはまっているのではないかと思う。
 根暗で嫌味でお金持ち自慢のいじめられっ子。
 私の子ども時代は椅子に画びょうを置かれ、上靴を溝に隠され、机にごみを入れられる日々だった。
 今ならわかるのだ。なぜそんなに妬まれたのか。だが、当時はわからなかった。誰にも迷惑などかけていないのに。なぜこれほど嫌われるのだろうと。
 これには、私の母が関係する。

 母は、私を溺愛していた。上の姉が幼くして他界し、5年越しに生まれた娘だったこともあっただろう。だが母の愛し方はあまりに愛玩的だった。思春期が近づくと、母は私を使って自慢したいのだということがわかるようになった。
 彼女は私を着飾り、理想通りに成長することを望んだ。毎年書く読書感想文や作文で表彰されたのだが、そのことよりも何を着せるかが彼女の最大の関心事だった。田舎の子どもには過ぎたプレタポルテの服を着て美容院で髪をセットしてもらって表彰式に向かう。その時の写真を、母は友人たちに見せるのが趣味だった。
 習い事も多かった。ピアノ、そろばん、習字、英会話、フィギュアスケート。多少身についたのは英会話くらいか。毎日習い事で遊べない。友人が遠ざかるには十分すぎる理由だ。
 母は私を溺愛していた割に……いや、溺愛していたからか。非常に厳しかった。友達は彼女が選び、門限は下校時間15分以内。当時流行ったファミコンや漫画など買ってくれるわけもない。気に入らないことがあると躊躇なく手を上げた。特に叱られた私が泣くのが嫌だったらしく「泣くな!」とヒステリックな金切り声で叫んだ。今でも思い出すと震えるほど、それは私の中に刻み込まれた。特に勉学に対して完璧を求めた彼女は、ほんの一問の間違いも許さなかった。
「なぜこの一問が解けなかった」と責められる日々に、私は97点の答案用紙を見てため息をつくようになった。99点でもため息をつく。100点でなければ怒られるのだ。だが、成長した今になればわかる。97点で「出来が悪い」とため息をつく同級生を75点や80点の答案を受け取った彼女彼らが見たらどう思うか。
「97点で悪いとか嫌味やね」
 そう言われた理由はそれよりもずいぶん後になってわかった。

 子供たちはともかく、母親同士はとても仲が良かったようだ。母を含む何人かのグループで食事に行くのを何度も見送ったことがある。参観日でも、母はいろんな人と笑顔で談笑しているのが見えた。参観日ともなると、お互いの子供を誉めそやして多少の謙遜をするというのが慣例のようになっている。謙遜は日本人の美徳だ。だが、母の謙遜は少々行き過ぎた。
「あやねちゃんはかわいいし、頭もよくていいねえ」
 そんな声が聞こえてくると、私は決まって耳を塞ぎたい衝動に駆られるのだった。なぜなら、その後に聞こえてくるセリフは決まり切っているからだ。
「いやあ、そんなことないんよ。習い事させてもちっともうまくならんし、テストも全部百点ってわけにはいかんしね。一人っ子で甘やかして育てたから一人じゃなんもできんし手伝いもせんし、勉強もせんしね」
「そんなことないよ」と相手が言い募ろうものなら、罵詈雑言と言っても過言でないほどのヘイトが浴びせかけられる。本人は謙遜のつもりかもしれないが、聞かされている人たちが若干引いているのが子供の私にもわかるほどだ。周囲の同級生がどう思ったかはわからない。私にとっては彼らも、母と変わりない存在だったからだ。

 本は、変わらない風景を私に見せてくれる。私がどんなに惨めだろうが、疎まれていようが、関係なく素晴らしく、そしてどこまでも残酷な世界を見せてくれる。そして、文章でなら私もそんな世界が生み出せるのだ。
 それが私と本の関係であり、私が37年書き続けている理由だ。

読んでいただくだけでも十分嬉しいですが、サポートいただくとおいしいものを食べたりして幸せになれます。私が。