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浜村温泉で映画をつくる記録〈4〉キーワードその①田中古代子

映画をつくる上で、決めているキーワードの1つめについて。

「田中古代子」という女流作家の作品を題材にする。題材にするといったら、なんか、田中古代子の小説を映画化するみたいに聞こえるかもしれないんだけど。

もともとそう考えていたのだけど。なんかそれは違う気がして。やはり、一番は「私の映画をつくる」なので、あくまで、田中古代子の作品は補助的那存在なのです。

補助的というのもなんかすみっこに追いやられた感じするな・・・なんといったら良いか。「田中古代子の作品を松島彩が解釈したらこんな感じになりました!」って言う感じ。うん、そんな感じ。

で、作品はもう決めてます。

「二種の夢と私の存在」という随想(というのかな?)を使います。そのナ中の一文がこれ。

「私は女だ、家庭に於ける人の妻であり、幼児の母であり、又老母には一人娘であり、一人の弟には一人の姉である、けれども人妻に即せず、母親たるに傾かず、尚又娘であり、姉であるに限られない処に、それ以上の処に、私は自分の存在価値を知りたいのだ」

浜村を歩いていたら、この字が掘ってある石碑を見つけて、私、動けなくなりました。大正時代の作家の文章なのに、こんなにも今の私の心にズドーンと響くなんて。田中古代子なんて作家を知っている人は少ないだろうけど、この悩みは多くの人が抱える悩みでもあるんじゃないだろうか。少なくとも、私は自分が何に悩んでいるのかもよくわからないまま、自分を憎み、ただひたすらに死にたいとばかり思っていた。そのときのこれを読んで、なんか、生きる気力をもらった・・・というとなんかざっくりすぎて的外れになりそうだけど、とにかく、水を得た魚になったのです。

これについて映画にしたいと騒ぎ立てたのだけど、具体的にどうしようかがなかなかまとまらず今に至る。時代劇にするなら何千万と金がかかるとおどされたり(笑)でも得意の「言って歩く作戦」だけは続けてきた。日本海新聞で取り上げてもらったり、古代子の娘が書いた本を増刷してもらったり、講演なんかやっちゃったり、予算までもらったり、なんかすでに周りを巻き込んでしまっているが、肝心の中身が浮かばない、定まらない、進まない。

でも、古代子の作品は消えてなくならないし、この文章に魅了された時の気持ちもなくならない。

「私は女だ、家庭に於ける人の妻であり、幼児の母であり、又老母には一人娘であり、一人の弟には一人の姉である、けれども人妻に即せず、母親たるに傾かず、尚又娘であり、姉であるに限られない処に、それ以上の処に、私は自分の存在価値を知りたいのだ」

このメッセージを映画の真ん中に置くことにする。

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