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浜村温泉で映画をつくる記録〈9〉どんな感じの映画にしたいのか。

映画『ファーザー』みたいな感じをイメージしてる。

女優としていろんな表現方法を経験してきた。映画から始まり、ドラマ、演劇にインプロ 、そして朗読など。女優じゃないけどバラエティやラジオ、新聞やブログでの執筆もやってきた。表現したいことによって、媒体を選ぶのって大事だと思ってる。「これ、わざわざ映画にする必要ある?」って思っちゃう作品だったり、「舞台で長々とやったけど、多分これ一言で済むよね」みたいな事も思ったり。もちろん演じる事は、好きだけど、私が女優をしたい気持ちの真ん中には、伝えたいことがあるから、選んだ仕事なんじゃないかと思う。だとすれば、女優でなくてもいい。でも、私は映画がとても好き。だから、英語でやりたい。でも映画でやるには、なんでもいいわけじゃない。表現したいことあるなら、ブログで書くのが一番手っ取り早いし、喋りたいならYouTubeでやればいい。こんだけいろんなメディアが溢れてるんだから選択肢は山ほどあって、わざわざ人力とお金を使って映画にする必要がないと思う。だからこそ、映画じゃないといけない理由を私の中で明確にする必要があると思った。

それが、ファーザーを見たときに、これだ!と思った。この作品で受けとった感覚は多分、映画じゃなきゃ感じられないと思った。まあ原作やシナリオを読んでないので偉そうなことは言えないのだけど。ドキュメンタリーではファーザーのエンタメ性はきっと出ない、ただの苦しい話になってしまいそう。テレビだと集中途切れてなんのことかわからなくなりそう。(本は読んでみないとと思ってる、どんなふうに文字になっているのかを参考にできると思う。でも今調べたら、舞台劇が原作らしい。ノベライズ版ないのかな・・・)とにかくあの記憶喪失の表現の仕方は、映画じゃなきゃやれないって思った(舞台観たら同じように思うかもしれないけど笑)。細部の表現なんかにもいろんなヒントがあってそれが瞬時に移り変わる感じがまさに映像ならではと思った。記憶喪失はないけど、夢とか、初めての感覚なのに原風景のように感じるとかそういう脳内で起こったことはドキュメンタリーではできないし、だからこそ、役者の芝居をはじめ照明や音楽なんかで一から作り上げる劇映画ならではなんじゃないかと思ってる。あと、演劇が選択肢にないのは、私がそれに出たいし観たいというのが一番にある。演劇だと、出たら観れない、観たいなら出れない、出たいし観たい私にはあまり相性がよくない表現方法だなって思ってる。

とにかくいろんなものがごちゃごちゃして絡み合う私の脳内を表現できるヒントをファーザーからもらった気がする。田中古代子のシーン、自分の感情、ホームレスとのやり取り、古代子が自殺に至るまでの葛藤など、いろいろ詰め込みたいものがあって、それをそぎ落とさなきゃと思ってたけど、ファーザーの手法なら全部詰め込められそうな気がした。やってみないとわかんないけど、今はその方向性でまずやってみる。

少しずつ、「映画じゃなきゃいけない理由」も見えつつある。自分さえ納得できればいいんだけど。少なくとも自分が映画を見たときに、感じる違和感とか、これはいけんわ、と思うような要因は絶対つぶしておきたいと思う。自分が一番観たい映画で自分の人生史上一番いい映画を観たといえるものを作らなきゃと思ってる。

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