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イッツ・ショータイム

大学を出てそれほど経たない頃。

女優になりたいと思った事があった。


思っただけで特に行動もしなかったから、もちろんなっていない訳だけれど、何故か演技には絶大な自信があった。


女優という職業には、主役以外の役割も必要だから、特別な美人ではなくても、なれると思った。


今思えば、

息をするように、「理想の私像」を演じながら生きて来ていたから、台本に即したお芝居だってチョロいと思っていたのかもしれない。

共感が得意だったから、与えられた配役の気持ちになりきる自信もあった。


いつも、「周囲の人」という観客を意識して、どう演じれば観客を満足させられるのかを計算しながら、自分の言動を作っていた。

誰かに怒りを示すときは、ここで怒ってるように見せる方が効果的だな、などと計算して怒ることが多かった。


それは中々骨の折れる事で、気持ちが休まらないからか、友だちが本当に少なくて、休みの日は基本家に引きこもって過ごすのが好きだった。


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鉛筆で可愛い漫画を書いたり、

ノートに、誰に見せるでもない小説を書き続けたりして、自分の心の中にある、小さな世界に浸っている時間が、本当に心地良く過ごせるひとときで。


それ以外の時間は全部、私にとっては観客を意識して過ごす、イッツ・ショータイムだったのだ。


いよいよ、演じ続ける事が困難になってきた。

演じている自分の事を、いつしか本当の自分だと思い込み、いよいよ役と一体化しかけていた。


人に向けるのは基本笑顔。

笑顔の人は好ましいし素敵に見えるという知識に即して、常に微笑を貼り付けておく。

腹の中ではどう思っていてもだ。



そんな生き方にギブアップした。


いきなり演技をやめることは難しいけれど、最近、本来の自分が分かるようになってきた。


今まで我慢してきた事をたくさんやった。

贅沢だと思って諦めていたことを体験していった。

自分が心地良くなれるように、生活をしてみた。


心ゆくまで、諦めていたことをやり続けてみたら、ふと、そういったものがどんどん削ぎ落とされて、何が心に残って居るのかも、感じるようになった。


贅沢なパフェを気が済むまで食べ散らかしてみたら、塩や醤油味のお煎餅が物凄く好きだったことを思い出したり、

心ゆくまで寝散らかしてみたら、朝は日の出とともに目が覚めるようになってしまった。


そして、ひとりでディズニーランドで朝から晩まで好きなように遊び散らかしてみたら、家の中でひとりで掃除している時間も、実は悪くないと感じ始めた。


それが得られない時には、なるべく派手な事を切望してみたけれど、

そんな事ばかりしていてもくたびれてしまう。

散々それをやってみたら、実はそんなでもなかったと気がついてしまった。

時々そんな事をしてみても、実は日々の暮らしは地味に過ごしたいと、しみじみ感じている自分に気がついた。


お茶漬けとお味噌汁を食べて、ホッとしたい私がここに居て、そんなの貧乏くさいと思うのは、イッツ・ショータイムをしていたからなのだと気づく。


そうしたら、元々自分はいつもお茶漬けとお味噌汁を食べていたことに気がついて、それを意識的な演出としては認められないと、無意識になかった事にしていたような気がしたのだ。


こうしたSNSには、イッツ・ショータイムを助長するような側面もあるけれど、

逆に、その演出を「意識的に」やるのであれば、本来の自分と特別な演出をしっかりと分けられるような気もする。


今は、イッツ・ショータイムを終わらせていく、私にとって大切な時期なのだと思う。