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自分探しの終着駅

私は一体何者なんだろう。

老若男女問わず、そう感じる人は割と多いのかもしれない。

何のために生まれてきて、どんな使命を持っているのか。

このままの日常で、果たして良いのだろうか。

世界のために何事かを為さなければ。


高い理想と目の前の現実とのギャップに悶々とする日々。


さて。心当たりがある人は居るだろうか。


そんな思いを抱いて、占いや自己啓発やカウンセリングやセミナーなどを渡り歩いたり、資格取得に精を出したりしているうちに月日が過ぎ。

何となく何者かになれたような、それでもどこか満足できて居ない自分にジレンマを感じたり。


もし、今そんな状態の人が居るなら、どうか希望を持って欲しい。


そうして探して居るということは、自分を諦めて居ない証拠。

諦めて居ない自分自身にまず、拍手だ。


そして、受け入れがたい事実を飲み込んで欲しい。


この世の中に、使命を抱いて生まれてきた人など一人も居ないことを。



この世界に、何者かになって何事かを成そうと生まれた人など、一人もいないのだ。

だから、あなたが今その手に握りしめている「使命と思われるもの」は、実はあなたを縛る幻想の鎖でしかない。


あなたが手にしてきたのは自由の翼。


あなたが本当にやりたいことは、ただただ

「自分で決めて自分で体験する」

ということなのかもしれない。


今日食べるものを選ぶ。今日着る服を選ぶ。今日眠る時間を決める。


逆を言えば、どんなに「使命だと思い込んでいるもの」や「立派で素晴らしいと思っていること」を手にして居ても、自分で決められない日常は、それだけで生きる目的を奪われているようなものだ。



これは、ある人の話。

とある崇高な使命を帯びて生まれてきたのだと思い込み、懸命にその使命を遂行しようと頑張るけれども、ちっとも認められずに残念な思いばかりを繰り返して生きて居た。

でも、その人が本当にやりたかったことは、そんな崇高な使命だと思い込んでいたことではなく、ただただ、自分で決めて体験したいという思いだけ。

その事に気づいて生き方を変えた途端、その人の心は喜びに包まれた。


”世間様”を基準にすると、途端にそれがわからなくなる。

本当の自分を探して彷徨う子羊たちはまず、

”使命を帯びて生まれてくる存在は一人も居ないのだ”

ということを、一度飲み込んでみるのも良いかもしれない。



とある人というのは、私の事だ。


私は今、穏やかに幸せを感じている。


自分探しの終着駅に佇んで、自分を待ってくれているのは

なんの装飾もない、ただ、無邪気な自分自身だったりする。