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ショートショート017『ぼくの目の前のおかしなおじさん』

ぼくの目の前のおじさんが、おぉーきなアクビをしている。
奥歯まで見えた。
テレビで見るみたいな、白くてピカピカした歯だった。

ここは朝の電車の中。
3両のローカル線が、田んぼの中を走っていく。
駅は全部で10コしかない。
だけど、駅に近づくたびに、ちょっとだけ街中になる。

ぼくの目の前のおじさんは、ちょっとキョドウフシンだ。
あちこちをチラチラ見ては、またアクビをしている。
かと思ったら、ぼくの隣のお姉さんをガン見し始めた。
そんなにしつこく見たら、お姉さんに怒られるんじゃないかとヒヤヒヤした。
お姉さんは、スマホに夢中で気づかない。
ほっとしたような、心配なような……。

ぼくは、おじさんの前に立っている。
最近、やっと吊革につかまれるようになったので、立っていたい。
どうせ学校までの10分しか乗らないし。
おじさんみたいに、朝から疲れてる人たちが多いから、譲ってあげてる。
ぼくは吊革につかまれるオトナだからね!

おじさんが、今度はお姉さんをチラッと盗み見てる。
何度も盗み見ている。
そんなに見ると、ぼくもお姉さんが気になってきた。
で、チラ見する。
わぉ、お姉さんもこっちを見た!
ぼくは、うっ、となる。
心臓がドキドキして、うっ、となる。
吊革につかまってる手とは違う方で、心臓のところを押さえる。
いやこれは、お姉さんが心配だからで、お姉さんがニコッと笑ったからではない断じてない。

あわてて顔を前に向けると、おじさんが自分の手を噛んでいた。
えぇっ、なんで!?
今度はぼくがおじさんをガン見した。
おじさんがぼくを見るかも……なんてことは、全然考えなかった。
というか、手をガブガブ噛んでるおじさんのことしか考えられなかった。

チラッとお姉さんを見る。
わぁ、お姉さんはまたスマホに夢中だ。
ねぇ、ちょっと、ちょっとお姉さん、なんか逃げた方がいいかもだよ?
お母さんが、世の中にはいろんな人がいるって、自分で気をつけなきゃダメだって、言ってたよ。

おじさんは、今度は自分の腕をぺろぺろ舐めて、そして……お姉さんを見上げてニヤッと笑った。
どどどどうしよう!
ぼくは首の後ろに冷たい汗をかいていた。
周りの大人ちたちを見ても、だれも気づいてない。
というか、寝てるかスマホしてる。
声!
声出して、みんなに教えた方がいいよね!?

ガッタン……カタン……キキ、キー。

もうすぐ終点の駅に着きそうだ。
急いでお姉さんと外に出なければ。
その時、ぼくの上空が暗くなった。
おじさんが立ったのだ。
電車が止まるまで動いちゃいけないのに、立ったのだ。
ずもも、という音が聞こえそうなくらい、ぼくにおおいかぶさって来る!
これはもう、本格的にやばい!!

「あぅあわあぁっ」

ぼくはランドセルごとズドンと尻もちをついた。

プシュー!

ドアが開いた。
その瞬間、おじさんが忍者のようにシュッと飛び上がったかと思うと、白い小さな塊になって、ドアから飛び出して行った。

「ひゃぁあ、なんだ!?」

ぼくは尻もちをついたまま、のけぞった。
ランドセルが邪魔になって、ひっくり返ったカメみたいに、床に転がった。
うぅ、かっこ悪い。どうしよう。
きゅっと目を瞑った。
涙が出そうだった。

「大丈夫?」

うっすら目を開けると、あのお姉さんがぼくをのぞき込んでいた。
寝てた人やスマホしてた人は、みんな一斉にぞろぞろ降りてしまった。
だれも見てないの?

ぼくはお姉さんの手をかりて、ゆっくり立った。

「ありがとうございます」

ペコッと頭を下げて、手を離そうとした。

「学校遅れちゃうんじゃない? 早く行きましょう」

ぼくは、お姉さんに手を引かれたまま、早足で電車を降りた。

「あの、電車は一本早いのに乗ってるから、急がなくて大丈夫です。お姉さんは、仕事、大丈夫ですか?」

ぼくはもう一度手を離そうとした。
お姉さんはきっと、急いでいるだろうから。
だけど、きゅっとまた強く握られる。

「私は午前中休みなの。だから、平気」

さっきみたいに、ニッコリ笑いかけられた。
また、うっ、となってしまう。

「今日はね、チロの誕生日なの」

ぼくとお姉さんは、もうだれもいないホームのベンチに座った。

「チロは私が飼ってた猫なの。大きくて、真っ白な猫。アゴが外れそうなほど大きなアクビをするの」

チラッとお姉さんを見上げる。さっきのおじさんみたいだな。

「去年亡くなってね。人間で言えば、まだ50歳くらいだったんだけど、病気でね」

お姉さんがスンと鼻をすする。

「命日よりも、やっぱり誕生日をお祝いしたくて。仕事を半日休んでお墓参りに来たんだ」

ぼんやりと駅の向こう側を眺めている。
あぁ、そうか。

「この駅、動物霊園が近くにあるね」

うん、とお姉さんは答えた。
なんだか、色んなことがいっぺんにわかった気がした。そうか、ともう一度思った。

「さっき、ぼくが……あの、悲鳴をあげた時ね、目の前におじさんがいたんだ。自分の腕を噛んだり、なめたり、お姉さんをチラチラ見たり、笑ったり、してた」

ぼくは空の雲を見ながら、ぽつぽつと話した。
あの雲、ちょっと猫に見える。
お姉さんは、本当?  と聞きながら、うふふと笑った。

「それはきっと、チロだわ。あの子ったら、私の誕生日も覚えてたのね」

今日は、チロの誕生日で、お姉さんの誕生日でもあった。
2人……いや、ひとりと一匹は、お互いに誕生日を祝おうとしていたのかな。

「私にはおじさんの姿は見えなかったわ。目の前の席が空いてるのに、なんでこの子は座らないのかしら?  と思ってた」

やっぱり、おじさんはぼくにしか見えていなかったんだ。
ぼくは、おじさんの行動にヒヤヒヤしたことを話した。
そしたらお姉さんは、ありがと、と言った。
ぼくはなんて答えていいのかわからなくて、空を見上げた。
まだ猫雲が流れずに、そこにあった。

「あ、ねぇ、あの雲、チロみたい」

ぼくはうんと答える代わりに、お姉さんの手をきゅっと握った。

<了>

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