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『輪島の海女&漁師一家を応援することを決めたハナシ』その1



2024年の元旦。我が家では、家族が集い毎年恒例となっている特別な団欒のひとときを送っていました。きっと日本中の多くの家庭が似たような時間の過ごした方をしていたのではないかと思います。でも、この日、能登半島では大地震が猛威をふるい、そこに住む人たち全ての運命を変えました。

輪島の朝市の場所
謹賀新年の貼り紙には元旦から営業の文字が。


何か、少しでもお手伝いできることはないだろうか…。

そう模索する中で、私は友人が立ち上げたプロジェクトを通して、輪島で400年続く海女漁をされている千春さん、そして代々輪島で漁師を引き継いでいるお兄さんの早瀬ファミリーの皆さんと知り合いました。

私たちに出来ることは、本当にささやかなことですが、それが少しでも心の支えや応援に、そして生活再建のお手伝いになるのなら…。そんな思いで動き始めています。

出会いのきっかけや、これからの具体的な支援活動などは、これから詳しく書きますが、

その前に…。そもそもの、そのような思いに至ったことの始まりから書こうと思います。

私は1995年に起こった阪神淡路大震災で震度7強という激震に遭いました。まさに無我夢中。どうにか子どもたちを連れて避難所に逃げることは出来たのですが、それからが長い被災者生活の始まりでした。

生活が一変し、全てが不自由になったこと。明日がどうなるのかもわからず、食べ物が避難所で配給されたのはありがたかったのですが、連日、コンビニのおにぎりやカップラーメン、そして菓子パン。

そんな中、見ず知らずの方が遠方からやって来てくださり、暖かな炊き出しで美味しい食事を作ってくださったことに、どれほど身も心も救われたことでしょう。

そんな思いがあったので、東日本大震災の時には、出来る限りのことをしたいと思い、私のメルマガで声をかけ、賛同者を募りカンパを集めました。そして、震災翌月の4月には炊き出し隊を組んで岩手県・宮古市へと向かうことが出来たのです。拠点として使わせてもらったのは、比較的被害が少なかった岩手県・花巻市の友人が経営する旅館でした。その拠点がなければ、正直なところ、炊き出しに行くことは困難だったと思います。
ボランティアの第一条件は、現地に一切迷惑をかけず、自分たちで完結することですから。

花巻市内のスーパーでは、炊き出しに使う食材を原価で、また花巻市内のお寿司屋さんが大量の炊き立てご飯を無償で提供してくれたこと。旅館の台所を貸してもらえたので、炊き出しの調理が事前に出来たこともありがたく、縁繋がりで知った宮古の熊野神社さんと近隣の小学校、それぞれの避難所で合計300人あまりの炊き出しを行うことができたのです。

能登での悲惨な状況を見て、やはり直ぐに炊き出しに行き、大変な思いをしている方々の為に、どうにかして暖かかくて美味しいものを食べてもらいたい!という思いはありました。ただ、どう考えても、その糸口はなく…。その上、能登は道路が寸断されていたこともあり、復興事業の妨げになるので、ボランティア活動は控えてください、というニュースが頻繁に流れていたこともあり、炊き出しが緊急に必要と思われる時期は過ぎていきました。

更に、日々が流れる中、能登の震災関連のニュースも少ななり、被災地の人々は、どんな思いで暮らしているのだろう…と気掛かりだった頃。

友人である糸魚川のヒスイ職人の山田さんが、

山田さんが生み出した、美しいヒスイの勾玉
私たちのお店で、毎年冬に開催させてもらっている
山田さんの作品展『糸魚川ヒスイ展』


能登に行き、災害ボランティアを始めていることをFacebookを通して発信し始めました。

更に、地元の皆さんが人々が家宝としてきた貴重な輪島塗の器が、ゴミとして処分されかかっていることを知り奮起。
被災者に代わり家宝であった輪島塗を販売して、その売り上げを全額義援金として渡すというプロジェクトを立ち上げたのです。

何もできないけれど、せめて購入することで被災者の方々を応援できるのなら。それも、能登人々が家宝としてきた輪島塗の漆器。それを我が家に迎えられるのなら…そんな有り難い支援はないわ!と思ったのです。
紹介されていた器も魅力的でしたが、山田さんに連絡したところ「お膳セットもあるよ」というのです。

お正月、家族が集まった時に、そのお膳を使いながら能登へ思いを馳せ、また、我が家の家宝として受け継ぐのも良いな、と思い思い切ってセット購入を決めました。

すると、山田さんから、
「天川さんが購入することにしたお膳セットは、輪島の海女をしている友人の蔵の中から出て来たものなんだけど、その蔵の中にはまだまだ沢山の輪島塗があるみたいで。もしも可能なら、その蔵のもの全部引き受け販売して、義援金作ってくれないかな?」という、想像外の言葉が。

正直なところ、私には全く余裕はありません。時間もお金も。お膳をセットで購入させてもらうのが、今の私に出来る精一杯。

私の職業は作家・プロデューサー。そして自然の叡智と命の尊敬をテーマとした『オフィスTEN』という事務所を運営して間も無く30年になります。

様々な仕事をする中で、平和の民と呼ばれるアメリカ先住民・ホピ族の専門店も運営しています。

東京・根津にあるHopiショップ

コロナ禍で、渡航することも運営することも不可能となった時、ホピショップを守り、私たちらしく仕事を続ける為、大借金をして新たな事業を立ち上げ、チョコレート屋さん、セレクトショップ、そしてカフェまで作りました。
(noteに、コロナ禍にお店を次々誕生させた話しを書いています。よろしければ読んでみてください)

昨年、ようやく4年ぶりにホピショップを再開させることが出来たこと。また、先に書いたお店それぞれを、今は軌道に乗せる為に手一杯。更に、私の本業でもある執筆があることや、それ以外に引き受けている仕事もあり…。やることがまさに山積み。
寝る時間も裂いて日々どうにか過ごしているというのに…。蔵の中のものを全部引き受けて、輪島漆器販売するなんて無理に近い…と思いました。

でも、無理に近いけれど無理ではない、とすぐに思い直したのです。

私たちは元気であり、雨露凌いで暮らすことも出来ていて、明日の食べ物の心配も今のところしなくて良い状態。でも天災で悲惨な生活を強いられている人は、元気を失い、雨露凌ぐ家も失い、明日どころか今日の食べ物すら、まだまともに食べることもままならない、不安だらけ。

長期間、ずっと預かって…というのは難しいけれど、6月前半なら、他の仕事と重ならず、集中販売して義援金を作ることなら出来るかもしれない!

20年以上一緒に事務所運営を頑張ってくれている、享ちゃんこと浅井に、この話を相談してみたところ、やりましょう!と賛同してけれたこともあり、
山田さんに、お引き受けする旨伝えました。

場所は、当初、近隣の公共施設の少し広い空間を3日間借りるつもりでいました。ところが、公共会館で相談すると「被災地支援であれ、チャリティーであれ、ボランティアであれ、全てを義援金にするのであれ、物を販売するのは禁止です」と残念な返事しか戻って戻ってきませんでした。

でも、やる!と決めたこと。
そこで色々考えました。

私たちがコロナ禍、開くことも出来ず空家賃を支払い続け守ったホピショップ。ここには、平和の民たちホピ族の専門店。この場所で開催することが最も正しい気がしてきたのです。ホピショップには、彼らの文化や精神性の中心、カチーナという精霊のスピリット宿るお人形が沢山壁にかかっています。

このカチーナたち、そして店のショーケースに入っているもの全てを一旦、私たちが新たに運営しているハミングバードカフェに全て移動し、一時的にホピショップの場所を早瀬家の輪島漆器義援金販売会場にしたら良いのだ!

それに、私たちの店なのだから、日程も3日間ではなく、もう少し長く開催することも出来る。そう思った私は、開催日を6月7日(金)〜6月16日(日)まで(月・火はお休みします)ホピショップをこの期間のみ、TEN'sスペースという名前にして、開催することを決めました。

山田さんに、輪島の海女さん、千春さんの連絡先を教えてもらい、連絡したところ、なんと数日後に、池袋で開催されるダイビングフェアというものにゲストで呼ばれ、東京にやって来られるというのです。お会い出来るのは少し先になると思っていたので、ビックリでした。

早速、私と享ちゃんは、フェア初日、オープンと同時に千春さんに会いに行きました。

千春さんと初対面したのは4月上旬のことでした。


400年続く輪島の海女漁をされている早瀬千春さんは、想像以上に格好いい女性でした。

海女漁の道具を見せてくれました。


ダイビングフェアで出ていた幟




そして能登に行かないと何も始まらない。そう思い、私たちは5月中には輪島へ行く約束をしました。

そして、あっという間に、その約束の日はやって来ました。

              つづく…

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