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自分自身にとっての問題児であれ

「人生の岐路に立つ標識はありゃせぬ」
宇多田ヒカルがそう歌った時に思ったこと。

あらゆる結果には原因がつきまとう。
自己分析的な観点に立って、決定する材料が自分にしかないと考えた時、
原因はいつも自分自身にある。

大事な局面ほど他人に舵を委ねてはいけない。
まさにその局面にいる時、
その選択肢に正しいという保証なぞどこにもありゃせぬ。

割と他人の意見に左右される人生だ。
人の期待に応えることで、その人は喜んでくれる。

他人の期待に応えることが優先。
自分がどうしたいかは二の次だ。

そうして選択した決断が正しくなかった時、どうするだろうか。
自分が心から望んだ選択であれば、自分を責めるだろう。
他人に決められた選択であれば、他人や環境を責めるだろう。

いくら表面上で他責しない人間のふりをしていても、
心のどこかで「タラレバ」が渦巻いている。

人の期待に応えて、相手を喜ばせるということは素晴らしいことだ。
人のために自分が何ができるかを考え、努力する。
自分だけのための人生はつまらない。

しかし他人の人生を生きることはできない。
同じように、自分の人生を他人が生きることはできない。

他人の期待に応えることを主軸に置けば、
自ずと意思決定は(一部)他人のものになってしまう。

自分の期待に応えることを主軸に置けば、
他人の残念そうな顔を見る機会が多くなるだろう。

要はバランスなのだ。
日常にパレートの法則を当てはめるという記事を以前書いたことがあるが、
思考にもそういったバランスが必要だ。

自らが決めるべきことと、他人の意見を参考にすべきこと。
そしてその割合。
バランスを取るのはなかなか難しい。

自分の中の問題児は、時に従順であり、特に強情である。
飼いならされた問題児よりも、荒くれ者の問題児の方が好きだ。
荒くれ者は常に自分自身を驚かせる。
常にアウトローであり、常にチャレンジャーである。
疎外感に苛まれる時もあるが、それが存在している実感である。

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