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95 理性と倫理

 自転車でたまたま通りかかった公園で、遊んでいた父と子がいた。

 子のほうはまだ三歳前後だろうか、特にどこと場所を定めることなく、ズボンを下げて珍故をつまみ、放尿する姿勢だった。父は「お父さん怒るよ」と述べていた。

 ただそれだけの場面だが、あまり遭遇しそうにない状況だったので少々脳裏に残ったのだった。自転車を漕ぎながらその場面を思い返すと、どことなく混乱を覚えた。実際ああいう場面で子どもにどう接するべきなのか、改めて考えるとわからない。

 公衆の面前で放尿をするのはいけないことだ、という概念を論理的に教える? 

 そんなことはできるわけがない。そうしてはいけない論理的な理由なんてそもそもないのだから。そうなるとそれが倫理的にいけないことであるというのを分からせる必要があるだろうが、頭ごなしに叱る以外に方法はあるだろうか。

 仮にあの子どもが突如として明晰な理性に目覚めたとしたら、
「公衆の面前で下半身を露出することは忌避すべき行為です」
 と、至極理性的に説くことは、果たして有効だろうか。

「それでは排泄をどのように行なえばよいのですか?」

「そのために用意された施設があります。当該施設では、誰の目に触れることもなく下半身を露出し、行為を遂行することが可能です」

「了解しました。しかし残念なことに、現時点で排泄は喫緊の問題です。仮にあなたの言う『忌避すべき行為』に及んだ際に被る可能性のある不利益について、詳細かつ手短にご説明願えますか」

「承りました。大人がこれを行なった場合、法に触れる可能性があります。また子どもの場合、その保護者である私が近隣住民から非難の目で見られ、その後の関係を良好に築くことができなくなる可能性があります。以上のことから、たとえ喫緊の問題とはいえ今すぐ衣服を正常な状態に着衣し、専用施設、つまりトイレへ向かいそこで排泄を行うことを推奨します」

「事情は理解しました。そのトイレというのはどこにありますか」

「われわれの住む家にあります」

「感覚的な印象ですが、そこまでは到底もちそうにありません。どちらにせよ道半ばで排泄を行わざるをえないこととなり、それは現在の状況とさして変わりはないように思われますが」

「仮にもたなかったとしても、下半身を露出することは忌避すべきです」
「そうなると衣服を着用したまま排泄を行うことになりますが」

「構いません。あなたはまだ子どもなので、我慢しつつも漏らしてしまったという状況は、まだ一般的に受容可能な範囲の出来事です。この場合において重要なのは、公衆の面前で下半身を露出するという事態なのであり、極論として回避されるべきはこの点のみとなります」

「衣服が濡れることはわたしにとって、それなりの不快感を催しますが」

「申し訳ありませんが、その点は甘受していただくよりほかありません。わたしとしてもその後の処理など最大限尽力する所存です」

「くり返しになりますが、衣服を着用しない状態で排泄を行うよりも、衣服を着用したまま排泄を行なうべき、ということで間違いないですね」

「ええ、間違いありません。下半身さえ覆っていただけるのであれば、気兼ねなく排泄していただいて結構です」

「了解しました。それではあなたがたの文化に従うことにいたしましょう」

 そして子どもはズボンを上げ、失禁する。
 それを見た父親は子どもを連れて帰路に着く。

 ここまでを想像し、そしてふと我に返ってみると、だいぶ遠くへ来ているらしい自らを発見した。自転車をいったん降り、辺りを見渡してみるのだが、自分はどこを目指して、どこを走っているのか、もはやわからなくなっていた。

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