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89 旅館の絵

 絵は初め、階段の踊り場に掛けられていた。

 チェックインを済ませ、荷物を下ろし、浴衣に着替え、さっそく一風呂浴びようかと浴場へ向かう途中で目にしたのだが、どこか惹かれるところがあった。
 半身がフレームの外に見切れている鹿の尻を追うようにして、右手から子どもが駆けている様子が描かれている。
 その子どもの表情がなんとも言えない。笑顔ではあるのだがどことなくまぶしそうな、恍惚としたところもあり、見方によっては悲しそうにも見える。うっすらと身体の輪郭が透けるようなワンピースを身にまとい、素足で走っている。
 日本画のような雰囲気で、全体に淡くぼんやりしたところがあり、水面が映っているわけではないが霧深い湖畔の朝のような印象がある。清々しいとは一概に言えず、そこはかとなく不穏なところを感じさせる。霧に霞んだ森のような情景がバックに描かれているが、全体的に白く濁った背景に木立と思しき縦のラインがほんのうっすら描かれているだけで、森なのかどうかさえ実際あやふやに見える。
 そして一点、ホオズキなのかカラスウリなのか赤くにじんだ箇所があり、これが何なのかわからない。
 全体的に謎めいていて、何らかの含みを感じるもののそれが何なのかわからず、明確に焦点を結ばない。認識をはぐらかすことそのものが目的であるかのようでいて、無意味と断じるにしてはあまりに意味深長に思われる。全体の静謐な印象に浸ることができればそれは端的に魅力的な絵として受容されうるが、ひとたび意味を考えてしまうと迷宮に足を踏み入れることになる、それはそういう類の絵だった。

 特別高級というわけでもなく、老舗というわけでもないこの旅館には、明らかにそぐわない絵だった。試しに他を見て回ると、誰が書いたのかもわからない季節外れの菖蒲の絵だとか、金と銀の同心円が重ね書かれた和風の抽象画だとか、いかにも地元の趣味人が描いたといったふうな近所の風景の水彩画だとかいったものばかりで、少なくとも同じ画家の作品らしきものは一つも見当たらない。

 そうして広い館内を一周し、期せずしてかいた汗を風呂で流した後、フロントで事情を聞いた。鹿を追いかける少女の絵だと、何度説明しても首をかしげるばかりでらちが明かない。部屋へ戻りしな、ふたたびあの絵画を見たくなって例の中二階へ向かうと、そこには別の絵が掛けられていた。三つのナスが竹のざるに乗った水彩画なのだが、そんなことはどうでもいい。

 浴場に一番近い、一階と二階のあいだの、この踊り場だよな。

 と、行きつ戻りつ確かめ、念のためもう一つ奥にある階段を調べもしたのだが、ない。仕方なく部屋へ戻ったのではあるが、気になってしようがない。あの絵が掛け替えられる事情というものをあれこれ考えてみたものの、現実的にはどうしても、「あの絵の価値に気づいた客から遠ざけるために旅館側が隠した」としか思えない。フロントで事情を聞いたときこそ、しらを切っていたが、旅館側はあの絵の価値を知っていて、それに目を付けた宿泊客(つまりわたし)から遠ざけるため倉庫に引き上げた……。

 それ以外にありえるだろうか。と、思ってみると少々腹が立った。嘘をつかれていたという以上に、泥棒として見られていたのだから心外というほかない。本を読もうにも、ものを書こうにも手につかず、苛立ちに時間を浪費するうちに日は暮れ、夕食の御膳が運ばれてくる。

 ところがその夕食というのが、蟹やら刺身やら牛肉やらと宿泊費からすれば豪華すぎるほど豪華なものだったので多少気を取り戻した。もしかしたら暗に慰謝料として「嘘つき代」と「泥棒呼ばわり代」が上乗せされているのかもしれない。

 満腹となり、酒も入り、さてまた一風呂浴びようかと部屋を出たのだが、もやもやした感じがどうしても拭いきれなかったので酔い覚ましがてらふたたび広い館内を巡ってみると、思いがけず再会を果たしたのだった。

 その絵は今度、西棟三階のエレベーターホールに掛けられていた。
 奥まった台座に活けられた花瓶のススキに遮られるようにして、確かにあの絵がある。盗まれることを危惧したのなら、わざわざ館内の別の場所に付け替えることをするだろうか。と、募るばかりの謎を抱えたまま、その場は去った。ともあれフロントに悟られなければ先のような事態も起こらないだろうし、じっくり風呂に浸かって酔いを醒ましてから、改めて鑑賞に来ればよい。と、そのときは考えた。

 そして風呂上がりにふたたび訪れると、絵は掛け替えられていた。地中海に面したヨーロッパの港湾都市を抽象化したようなパステル画なのだが、そんなことはどうでもいい。

 確かにここだよな。

 と、確認がてら各階のエレベーターホールを確かめてみるのだが、どこにもない。

 仕方なしに部屋へ戻ってみると、床の間の絵が掛け替えられている。

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