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【書評】黒田夏子「abサンゴ」

【abさんご:黒田夏子:文藝春秋:2013:第148回芥川賞受賞作】

 子どもの頃住んでいたマンションの駐車場の前に、森があった。正しくは森の残骸、切れ端といったところで、畑や住宅に囲まれたなかにぽつんとそこだけ取り残されたように森があった、往事はそのような雑木林が辺り一帯を占めていたのだろう。マンションに住む子どもにとって良い遊び場となっていた。切られ横たえられた木に腰かけ、羽化したてのクリーム色のセミを眺めてみたり、ヤマゴボウの実で手を紫色に染めてみたり。ただ走り回ってみたり。いつの頃かは忘れたが、森で遊ぶほどの無邪気さを失ったような頃合いで、そこには四軒の家が建った。子どもの身には「森」と呼ぶのにふさわしいほどの印象のあったあの場所が、たった四軒の家に置き換えられたことが信じられなかったが、その程度のものだったらしい。出来立ての家にやがて越してきた名も知らない人々は、彼らが暮らし営む場所がかつて森であったことも、そこでわれわれが遊んでいたことも何も知らないのだろうな、と思うとそこはかとなく寂しい気がした。その新興住宅は自分にとって、森の想念を孕んだものとなった。
 ちょうど似たような内容が本作にあったので、そんなことを思い出した。
 比較を絶する作品である。
 というのは一節でも読んでみれば明らかだろう。例えば、

 代は夕刻とどけたときひきかえるほうがかえってめんどうがないと店さきで言われた者が残暑の午後をさんぽの足どりでもどると,車のついででもあったのか,すでにそれは上がりぐちのゆかで枯れ野の匂いをたてていた.おどろいているのへ,もう支払ったと,こともない声が書斎からあり,ちゅうもん者が返そうとするのはあいてにしなかった.そんなつもりではなかったのにとちゅうもん者のほうではむしろ不服の声になったが,支払い人のほうではきげんよくおだやかながらてんからうけとるつもりのないちょうしで,そんなときの子から親へならしばしばそうであるように礼らしい礼も言われないまま,ゆいつの家出どうぐはととのったのだった.

(p39)

 これは長らく一緒に暮らしてきた息子が家を出る際、荷物の受取に際して散歩に出ていたタイミングで、(頼んでもいないのに)父親がお代を払ってしまった、という場面の抜粋である。母親を早くに失い、父と子とお手伝いの三者で暮らすことになった人々の、何年にもわたる生の変遷が上記抜粋のような具合に描かれていく――それが本作の大部となる。
 固有名は一度も出てこない。代わりに、「代は夕刻とどけたときひきかえるほうがかえってめんどうがないと店さきで言われた者」や、「ちゅうもん者」と表現される。主体を指示する一文のなかに出来事の経緯までをも入れ込んでいるのが特徴的である。
「小児」「十七さい」「外来者」「家事がかり」といった具合に、登場人物はあくまでも属性や役割や経緯で呼ばれる。主語が既に何らかの想念を孕んだ状態で、主体の心理描写と周囲の情景描写とが分け隔てなく描かれていく。そこにさらに過去の回想や未来の予見を含めた時の自由な行き来があり、なおかつ描出されるところの「今」が精彩に立ち現れてくる。一文の息の長さとも相まって、そうした描出は、過去も未来も様々な想念も一挙に込められた切れ目のない「今このとき」をありのまま、形を崩すことなく提示し得ているように感じられる。「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ」といった客観的に分かりのよい世界が展開されるのではまったくなく、むしろそれらすべてが混然一体となった、分明以前の認識そのものが、そのままの鮮度で描出される、といった雰囲気がある。
「めんどう」「おどろいている」「ちゅうもん」「あいて」という具合に漢字を意図的に開いているところも、文章に流麗で切れ目のない印象を与える。そして何より、漢字で表すことが一般的に思われるような単語を敢えて開くことによって、当該の単語に付随した一般的な観念が洗い落とされ、作品内部で独自の、固有の印象を帯びてくるようなところがある。
 物事から固着した観念を取り払った状態で、有機的な繋がりを残したまま文中に付置するというこの思想は、例えば傘を「p48:天からふるものをしのぐ道具」と呼んだり、蚊帳を「p34:へやの中のへやのようなやわらかい檻」と呼んだりするところからも読み取ることができる。ここでも普通名詞が説明に置き換えられているわけだが、例えば「傘」の一語だと物としての傘そのものが想起されるところを、「天からふるものをしのぐ道具」と書かれると、降る雨も含めた状況そのものが想起されることになる。そうした状況そのものの想起が、展開していく内容と有機的に結びついて語られていくため、この種の詩的表現につきもののわざとらしさやあざとさといったものは感じられない。すべての表現に必然性があり、すべてが有機的に結びついている。
 手並みを感じさせないほどの手並みという点で、真に超絶技巧と言える。

 これだけ独創的な文体がなぜすんなり身体に馴染むのかというと、事実としてわれわれの生はそのようにあるから、というのが答えとなるだろう。傘を見ると雨が想起され、雨に降られた過去の一場面が続けて想起され、「もしもあの時雨に降られなければ」といった可能性が想起され……といったように、ただ目の前に傘があるという事実が、そうした想念の連鎖を生む。ものはものとしてただあるのではなく、そうした想念を孕んだものとして私の認識に有機的に結びついている。
 しかしわれわれは、それを敢えて「傘」と呼び一般化することで、その種の観念を断ち切っている。どのような模様の、どのような思い出のある、どのような傘なのかという固有の印象を捨象していくことでわれわれは客観的に分かりのいい世界を築いていく――傘と呼称される対象に一つとして同じものはなく、それを認識するのに際しても一つとして同じ状況はないというのに。同様に、今私は「abさんごのレビューを書く者」であり、数時間前は「日高屋で夕食を食べる者」でもあったように、生きている限り「同じ」ということはありえず、時はとどめようもなく移ろっていく。とどめようもない移ろいのなかに、これまでの過去を背負い、これからの展望が予見される。それが〈今〉の実相だろう。
 そのように「不断に移ろいゆく今」のことを、フランスの哲学者ベルクソンは「純粋持続」と呼んだ。

 純粋持続とは、質的変化の継起以外のものではありえないはずであり、それらの変化は、はっきりした輪郭ももたず、お互いに対して外在化する傾向ももたず、数とのあいだにいかなる血のつながりももたずに、融合し合い、浸透し合っている。それは純粋の異質性であろう。

(p98:時間と自由:ベルクソン:平井啓之訳:白水社)

 傘を「傘」と呼べず、また人物を名前で呼べない理由がここにある。傘を傘と呼んでしまうと、その他傘の一類型と化してしまう。また人物を名前で呼んでしまうと、通時的に同一性の保たれた人物の一場面の抜き出しと化してしまう。そうではなく、融合し合い、浸透し合い、外在化されないところの今を描き出すためには、「天からふるものをしのぐ道具」、「代は夕刻とどけたときひきかえるほうがかえってめんどうがないと店さきで言われた者」という一見迂遠で説明的な表現を用いるのがむしろ当を得ている、ということになる。
 当たり前のことだが、どのような出来事であろうと、巡りくるその時その時というのは常に新しく、そして過ぎ去れば二度ともとには戻らない。そうした一回性の生の――aでもあり得、bでもあり得たはずなのだが結局のところ「こうある」という生の――温かさと冷たさとが混ざり合うことなく混在した在り方が、生のまま描出されていく。比類のない今に込められた、錯綜し絡み合う観念を取りこぼすことなくさらってゆく本作の文章は、読書体験として得難いものがある。

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