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20221127 甥っ子からバトルを挑まれなくなった

題名は忘れたのだけれど、主人公が死に戻りを繰り返しながら最終的にはハッピーエンドになるアニメを見た。強欲の魔女だったかエキドナというキャラクターがいて、主人公の死に戻りの能力を使って色んな物語の選択とその結果を見たい、たいそう強欲な魔女だった。
その魔女は本音では主人公と是非とも契約したいはずなのだけど、主人公は契約しないことを選択した。それを聞いて「それも1つの選択だ」と自分にとっては都合が悪いにも関わらず、潔く肯定していた。

その一連の会話の中から「選択を肯定する姿勢」が、なんとなくいいな~と思いとても印象に残っている。(言葉にしてみると自分の考えをこうもうまくまとめられないものなのかと書きながら思っている。)

その考えを持ちながら、ある日甥っ子から、今はまっているポケモンGOの対戦を申し込まれた。私はこの日の為に鍛えていた全力のパーティで対戦した。全く手加減することなく3回戦い、死闘の末3回とも勝った。

この時、「勝ってしまった」という思いが少しあった。大人げないという言葉がしっくりくるような状況である。
わざと負けてあげて甥っ子にいい思いをさせてあげる選択肢もあったけど、内心では「やっぱりおじさんは強い」とリスペクトしてもらえると嬉しい気もしていた。
今改めて考えを言葉にしてみると、負けてあげることは子どもを子ども扱いしているような気もするし、それが相手に伝わった時は子どもは面白くないだろうと思う。
根本的に子どもと接する時に、子ども扱いが上手にできない性格なので、大人は上手に負けてあげるのが当たり前だという人もいるかもしれないが、自分は一人の人間として接するようにしている、というか接してしまう。下手したら他の家族の子どもに敬語を使ってしまうほどに。笑

私は全力で戦いに挑んで圧勝するという選択をした。その結果、それ以来対戦を申し込まれなくなった。悔しいから「もう一回!もう一回!」と、何回も対戦を挑まれることを望んでいた。もう対戦できないと思うと少し悲しい気もするが、それはそれとして私としては発見だったと感じている。
最初の話に戻すと、このことを通して甥っ子が「おじさんは強すぎる」と感じて対戦を申し込まないという選択をしたことを、私は肯定するし面白いと思う。

だから何と言われると何とも言えないのだけれど、誰かが何かについて、その人なりの考えを持っていること、その考えを基に選択して行動すること、行動の結果どうだったかにとても興味があるなあというのが今日の結論。

今日の友達との会話を振り返った時に、「なんでその選択だったのか、どういう考えで選択に至ったのか」、自分でも驚くくらい熱量を持って友達を質問責めにしていたことに気が付いたから、メモとして残しておく。


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