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たましん美術館(東京都立川市)「邨田丹陵 時代を描いたやまと絵師」展(2024)

閲覧ありがとうございます。日本絵画一愛好家です。

本年の晩冬の過日と仲春の過日の2回にわたって、東京都立川市のたましん美術館において2024年1月13日から3月31日にかけて開催されておりました「邨田丹陵 時代を描いたやまと絵師」展を拝覧して参りました。

本展が終了してから、もう5ヶ月近くも経過しているのですね。本展開催中に投稿するつもりだったのですが、できませんでした。この頃はたいへん寒かったのですが、本記事の投稿時点では危険なほど暑いです。なお、本展のことは単に「邨田丹陵」展と省略させて頂きます。

ということで、僭越ながら、たましん美術館を運営するたましん地域文化財団のウェブサイトのトップページにリンクを張らせて頂きます。

同ページの上の「美術」をクリックして頂ければくと、たましん美術館のページに移動します。

本展は、1月13日から2月18日が前期展、2月24日から3月31日が後期展で、しかも、前期後期で作品総入替えという豪気な展覧会でした。弊方、関西の在住ですが、こんな機会は滅多にないということで、根性出して交通費予算を捻り出して、前期後期のいずれもお伺いいたしました。

そうはいっても弊方セコいですので、高額の交通費の元を取ろうと安直にインターネットを調べたところ、本展「邨田丹陵」展と並んでダブルメインとなる展覧会/企画展が開催されておりましたので、ハシゴさせて頂きました。たいへんラッキー! クッキー!! ハ・グ・キー!!! (by 今田耕司アニキ)な状況でした。

本展の前期展は、本年2024年1月6日から3月3日にかけて千葉市美術館にて開催されておりました「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」および「武士と絵画 -宮本武蔵から渡辺崋山、浦上玉堂まで-」展をハシゴさせて頂きました。

このときは、関西から新幹線で新横浜、新横浜からJR横浜線で八王子、八王子からJR中央線で立川という経路で、たましん美術館にお伺いし、その後は、立川からJR中央線で東京、JR総武線で千葉という経路で、千葉市美術館にお伺いした次第です。

後期展は、記事として投稿済の、練馬区立美術館「生誕150年 池上秀畝-高精細画人-」展と、同じく記事として投稿済の、泉屋博古館東京「ライトアップ木島櫻谷 ― 四季連作大屏風と沁みる「生写し」」展をハシゴさせて頂きました。

ということで、僭越ながら投稿済の記事にそれぞれリンクを張らせて頂きます。

このときは、たましん美術館にお伺いするまでは前期展と同じでしたが、その後、立川からJR中央線で西国分寺まで出て、JR武蔵野線に乗り換えて新秋津、新秋津にて徒歩で秋津に移動、秋津から西武池袋線にて中村橋までという経路で、練馬区立美術館にお伺いし、さらにその後は、中村橋から西武池袋線-東京メトロ有楽町線直通に乗車して飯田橋、飯田橋から東京メトロ南北線で六本木一丁目という経路で、泉屋博古館東京にお伺いした次第です。

さて弊方、邨田丹陵先生のお名前は、以前からいちおう存じ上げておりました。きっかけは特に覚えておりませんが、たいへん有名な画人でいらっしゃるので、いろいろと文献でよくお見かけしたので、いつの間にやら存じ上げていた、というくらいの感じです。名前をほんのり存じ上げているだけで、どういった画人でいらっしゃったかなどについては、調べたこともありませんでしたし、ほとんど意識していなかったくらいだったかと思います。

しかしながら、偉大なる邨田丹陵先生を強烈に意識するきっかけがございました。それは、昨年2023年1月28日から3月19日にかけて、香川県高松市の高松市歴史資料館にて開催されておりました「第80回企画展 万物流転-語られるイメージと時間-」展を拝覧した折でした。

ということで、僭越ながら高松市歴史資料館のウェブサイトにリンクを張らせて頂きます。

といっても「万物流転」展にて邨田丹陵先生の作品が展示されていたわけではなく、高松市歴史資料館の常設展において、複製画ですが、邨田丹陵先生の作品「屋島合戦之帖」が展示されていたためです。オリジナルは個人蔵で香川県教育委員会が保管されているとのことでした。

複製画でこれほどのインパクトがあるというならば、実際の作品はもっとすごいであろうことは容易に想像できましたので、帰宅してから丹陵先生についていろいろと調べてみた次第です。

ちなみに「万物流転」展もたいへん素晴らしい激萌え展覧会でした。前期後期で大幅に展示替えがあるということで、弊方がお伺いしたのは前期展だったのですが、なかなか海を越えて讃岐までお伺いする時間的費用的ハードルが高く、後期展を断念した次第です。今から考えれば、何とか無理してお伺いしておくべきだったと悔やんでおります。

「屋島合戦之帖」は、香川県観光協会のウェブサイト「うどん県旅ネット」でも「源平合戦の地を巡る」というページにおいて紹介されておりましたので、僭越ながら同ページにリンクを張らせて頂きます。

このページによれば、作品名は「屋島合戦画帖」になっており、高松松平家歴史資料・香川県立ミュージアム保管となっておりますね。

この画帖、もちろん本展「邨田丹陵」展においても、作品番号28として前期展にて展示されておりました。

調べてみると、邨田丹陵先生の展覧会/企画展は、2022年4月26日から5月8日という2週間弱の短い期間で、立川市市民会館(たましんRISURUホール)にて、「邨田丹陵 生誕150周年記念 特別展」が開催されていたことが、安直なインターネットの検索により明らかとなりました。なお、こちらは単に「邨田丹陵 特別展」と略させて頂きます。

この「邨田丹陵 特別展」については、主催された公益財団法人立川市地域文化振興財団のウェブサイトにアーカイブが残っておりましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

この特別展では図録が制作されていたそうで、同展にお伺いできなくても、せめて図録だけでもと思って調べると、通販の案内も掲載されていたのですが、残念ながら終了になっておりました。

そこは往生際の悪い弊方、もしかすると再び邨田丹陵先生の展覧会が開催されるかも?! と期待して、(公財)立川市地域文化振興財団のウェブサイトを定期チェック用のリンク先に登録しておいたところ、2023年12月末頃に本展「邨田丹陵」展の開催が明らかとなり、本記事の冒頭のような経緯になったわけです。

しかも、(公財)立川市地域文化振興財団のウェブサイトでは、本展「邨田丹陵」展の開催に合わせて、「邨田丹陵 特別展」の図録を追加販売されることが告知されましたので、弊方、通販にて特別展の図録をまんまとゲットさせて頂きました。

ということで、特別展の図録と、その追加販売を案内するチラシ(フライヤー)を、僭越ながら弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。

こうなると否が応でも本展「邨田丹陵」展の期待が盛り上がり、2024年が明けて本展が開催されて比較的早い時期に前期展にお伺いさせて頂きました。

JR立川駅についてから北改札を出て、多摩モノレールの立川北駅の方に向かい、そのまま駅の下を通って階段を下りてサンサンロードを北に向かって歩くと、左手側にたましん美術館が格調高く鎮座ましましておりました。僭越ながら弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。

ちなみにこの写真は後期展のときに撮影したものです。

さて、本展の副題は「時代を描いたやまと絵師」となっております。言い換えれば、邨田丹陵先生が描かれた作品は、基本的には「やまと絵」という絵画様式というか表現形式というか作風といった感じになるのだと思います。

それでは「やまと絵」とは何かといわれると、これがなかなか定義することが難しいように思います。

昨年2023年、東京国立博物館において10月11日から12月3日まで「特別展 やまと絵 受け継がれる王朝の美」という大規模な展覧会が開催されており、弊方もお伺いさせて頂きました。この東博やまと絵展では「やまと絵」とは、例えば次のように定義されております。僭越ながら東博やまと絵展の図録から引用させて頂きます。

やまと絵は平安時代前期、唐絵と呼ばれる中国由来の絵画に学びながら成立し、独自の発展を遂げてきた世俗画(仏画などの宗教画ではない絵画)のことを指す。

東京国立博物館「特別展 やまと絵 受け継がれる王朝の美」展図録、第6ページ上段第2-4行
(収録論文「やまと絵の成立と展開」土屋貴裕著より)

簡潔で非常に分かりやすい定義だと思うのですが、こと近代に関しては、「やまと絵」と被る概念として「歴史画」という言葉があると弊方考えております。「歴史画」は必ずしも日本絵画に限定されず西洋画などでも用いられるようです。

先日の晩夏の過日にお伺いした、小山市立車屋美術館の「市制70周年記念 小山を愛した日本画家 齊藤鷗舟」展では、「歴史画」について次のように解説されておりました。

 「歴史画」は西洋の美術アカデミーでは高度な教養と構想力を必要とする最も重要視された画題であり、明治時代に日本にも輸入、翻訳され定着した。日本における歴史画の特徴としては、西洋絵画を意識した人物描写、時代考証、政治的・社会的な思想との結合があげられる。

小山市立車屋美術館「小山を愛した日本画家 齊藤鷗舟」展第I章解説より

「齊藤鷗舟」展については、記事化して投稿させて頂いておりますので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

一方、日本絵画、特に近代の「日本画」における「歴史画」のひとつの定義について、岐阜県美術館において1998年に開催された「近代のやまと絵 古典美の再発見」展図録から、少し長くなりますが次のとおり引用させて頂きます。

 「歴史画」は日本においては近代の造語で、歴史的事実や人物、風俗を題材とした絵画のことを広く意味する。明治10年代後半から30年代にかけて、社会全般にわたる国粋主義、ナショナリズムの現れと歩を合わせ、日本画、洋画を問わず、日本の歴史に題材をとった歴史画が盛んに描かれた。
 歴史画の流行は、日本の故実に基づく絵をお家芸とした土佐・住吉派の画家にとって好ましい傾向であり、やまと絵の画家の描いた武者絵などは、確かな時代考証に基づく歴史画として新たな視点から見直された。

岐阜県美術館「近代のやまと絵 古典美の再発見」展図録、第11ページ左カラム第20-26行
(収録論文「「近代のやまと絵」とは何だったのか」青山訓子著より。注釈(※13)省略。)

これらの知見を考慮すると、明治維新以降、「近代化」が進む中で、欧米から「歴史画」の概念が導入され、土佐派および住吉派を中心とする「やまと絵」系の伝統的技法と融合して、日本絵画の一つのジャンルとして日本独自の「歴史画」が確立した、と弊方ヲタク的に勝手に妄想しております。

この岐阜県美術館「近代のやまと絵」展図録にも掲載されているのですが、邨田丹陵先生は、土佐派の流れを汲む川辺御楯先生の門人だったそうです。本展「邨田丹陵」展図録から、僭越ながら次のように引用させて頂きます。

 父のもとで和漢の古典の素養を身に付けていった丹陵であったが、学問よりも絵画を好み、はじめ吉沢素山という画家に絵を学んだという。さらに本格的な絵画修行を欲した丹陵に、直景[引用者註:丹陵の父]は土佐派の系譜に連なる川辺御楯への弟子入りを勧めた。一説によれば、明治15年(1882)の第1回内国絵画共進会で銅牌を受賞した御楯の《尹大納言赴比叡山図》を見て、直景は息子の師に御楯を選んだという。

たましん美術館「邨田丹陵 時代を描いたやまと絵師」展図録、第4ページ左カラム第30-35行
(収録論文「邨田丹陵の生涯と画業」齊藤全人著より。注釈(●4)省略。)

丹陵先生の師匠でいらっしゃる川辺御楯先生に関しては、1994年に福岡県立美術館にて「特別展 川辺御楯と近代大和絵の系譜」という展覧会が開催されており、その展覧会図録も福岡県立美術館において本記事の投稿時点でも在庫がある模様です。もちろん弊方ゲット済です。僭越ながら、福岡県立美術館ウェブサイトの刊行物のページにリンクを張らせて頂きます。

川辺御楯先生は、当初は江戸狩野派を学ばれていたそうですが、その後、勤皇思想の影響を受けて土佐派に転向し、京都にて、土佐家宗家(土佐左近衛将監家)の土佐光文先生に師事された模様です。実際には複雑な経緯があった模様ですが、詳細については、「川辺御楯と近代大和絵の系譜」図録や「近代のやまと絵展」図録をご参照頂ければと思います。

ここで弊方、思いもかけないことを存じ上げてしまいました。

先ほどの通り、本展「邨田丹陵」展の後期展にお伺いした際には、練馬区立美術館の「生誕150年 池上秀畝-高精細画人-」展もハシゴさせて頂いたのですが、この「池上秀畝」展では、池上秀畝先生が師匠の荒木寛畝先生に入門した経緯が解説されておりました。僭越ながら、「池上秀畝」展図録から次の通り引用させて頂きます。

 明治22年(1889)、15歳になり高遠学校を卒業した秀畝は、画の師となる人物を探すべく父とともに上京した。父は当初、花鳥画で著名であった瀧和亭か、土佐派の川辺御楯を第一候補とし、各画塾を尋ねた。瀧和亭の画塾では、師匠の直接指導はとても受けられそうになく、川辺御楯のところでは粉本などを見て画技の程度を知り、息子の師には力不足と、結局どちらもやめることにした。

「池上秀畝 高精細画人」松浦千栄子、加藤陽介、木内真由美編著、青幻社、2024年、
第10ページ下段第7-14行(収録論文『僕は新派でも旧派でもない』松浦千恵子著より。)

要すると、池上秀畝先生のお父上(池上秀花先生)は、川辺御楯先生の画技が劣ると判断されて、秀畝先生を荒木寛畝先生に入門させたのに対して、邨田丹陵先生のお父上(村田直景さま)は、川辺御楯先生が優れた画人であると判断されて、丹陵先生を川辺御楯先生に入門させたことになると考えられます。

丹陵先生のお父上と秀畝先生のお父上で判断が分かれた理由について、弊方、作品ジャンルの違いかなぁ、と勝手に思い込みました。

すなわち、丹陵先生は、コテコテの「歴史画」であるのに対して、秀畝先生は、コテコテの「花鳥画」であるという「誤解」です。

ただ、練馬区立美術館の「池上秀畝」展において強い違和感を持ったのが、展示作品リストNo. 105(「池上秀畝」展図録においては第180-181ページに掲載される作品No. 099)の作品「神風」でした。練馬区立美術館では、3階の企画展示室II(展示室3)の奥側の展示ケース内に展示されていた作品です。

この「神風」は元寇(蒙古襲来)をテーマとした「神の怒りは金の炎で」(「池上秀畝」展図録第180ページ表題)表現したという四曲一雙の大作屏風なのですが、この作品は、ジャンル的には明確に「歴史画」であると思われます。制作時期を考えると(1943年/昭和18年)「戦争画」にも該当すると思われます。

弊方、練馬区立美術館の「池上秀畝」展を拝見して、秀畝先生のことを「花鳥画家」だと勝手に認識していたのですが、「歴史画」に該当する「神風」を拝見して認識が混乱してしまいました。

しかしながら、この弊方の認識の混乱は、長野県伊那市の高遠町歴史博物館、信州高遠美術館、長野県伊那文化会館、および伊那市創造館において開催された秀畝先生の生誕150年共催展覧会を拝見して解消されたのでした。

これら伊那市の展覧会では、秀畝先生の「歴史画」の作品を多く拝見することができたためです。そうすると、丹陵先生のお父上と秀畝先生のお父上との判断の違いは、ジャンルではなく別のものであろうと推測されました。

本展「邨田丹陵」展で展示されていた作品群は、基本的にはほとんど「歴史画」に該当するものだと弊方一方的に判断しております。

例えば、前期展展示の作品No. 23「山水夏景」は、表現形式はともかく近代的な「山水画」と見てよいのではないか、と思いますし、あるいは、前期展展示の作品No. 60「雪中梅」は、梅の枝にうぐいすさんがとまって、ホーホケキョ(?)とお鳴きになっている感じですので、「花鳥画」といえるのではないかと思われますし、後期展展示の作品No. 59「春暁和色」は、鳥さんは居てはりませんが雪をまとった梅が、儚げな雪被る梅花に対して空に向かって凛々しく伸びる梅枝の絶妙な美しきアンバランス(アホな表現で申し訳ありません)が、やはり「花鳥画」的な趣を感じるのですが、これら作品以外は、基本的には「歴史画」になるのではないかと、弊方考えております。

後期展示の作品No. 18「月夜望嶽」は、夜の富士山を描いた珍しい作品だそうですが(「邨田丹陵」展図録第31ページ)、この作品は、明らかに「山水画」ではなく、かといって写生に基づく「風景画」という感じでもなく、写実的な「真景図」という感じを弊方覚えるのですが、もし仮に「真景図」であるとするならば、丹陵先生は、古くから信仰の対象であった富岳を、ご自身の思想的な印象を反映して描かれたと解釈できないか、と勝手に一方的に思い込みで言えなくもないかと弊方考えております。

権威ある定義はともかくとして、ひとりの日本絵画の愛好家として「やまと絵/大和絵」とはなんやねん?! 明確に定義してみんかい!!! どあほ! ぼけ! かす! なす! ズッキーニ!!! とナゾの人物から激しく罵倒されつつ問われたとしたならば、弊方的には「政治性」の有無ではないか、と強引に回答させて頂きたいと思います。

先ほど引用させて頂いた通り、丹陵先生のお父上が丹陵先生を川辺御楯先生の師として選んだきっかけとなった「尹大納言赴比叡山図」と同じ画題の作品(福岡県立美術館蔵)が、「川辺御楯と近代大和絵の系譜」図録の第18ページに掲載され、第19ページにその部分拡大図が掲載されているのですが(作品No. 12)、この作品、弊方の私見ですが、土佐派っぽく様式美が優先された意図的な平面的描写のような印象を受けました。

この作品は、「元治元年(一三三一)八月二四日の京都三条河原における、尹大納言(藤原師賢)が後醍醐天皇を見送る、別れの場面を描く。」(「川辺御楯と近代大和絵の系譜」展図録第101ページ第3段第11-13行)とのことで、そもそも「政治的」な画題と言えると思います。

さらに、この作品は、明治天皇からの揮毫の命を受けて再制作して献納された作品と推定されているそうですが、明治天皇といえば、近代最初の天皇であると同時に、幕末の朝廷の状況を知る最後の天皇でもあったといえるかと思います。そうであれば、明治大帝は、土佐派の絵画には親近感を覚えていた可能性があるような気がします。

しかも、川辺御楯先生は、維新の志士たちと交わり、柳川藩の藩命により太政官に出仕されて明治初期に京都で公職に就かれ、このときに、先ほどの通り、土佐派宗家の当主であった土佐光文先生に師事されたようです。

そうすると、川辺御楯先生ご自身が非常に政治的な存在であり、それゆえに作風も土佐派の正統後継者的な感じであり、それゆえに、御三卿の田安徳川家にお仕えになった儒家であった丹陵先生のお父上は、川辺御楯先生を丹陵先生の師に選ばれたのではないか、と妄想したいと思います。

一方、池上秀畝先生のご実家は高遠藩に出入りする裕福な商家だったそうで、お父上の池上秀花先生は四条派を学ばれたそうです。そうすると、政治的な感覚は希薄で、それよりも、現代日本画にもつながる円山四条派の持つ「アート」的な感覚の方が強かったのではないか、と妄想され、それゆえに、川辺御楯先生ではなく荒木寛畝先生を選ばれたのではないか、と妄想したいと思います。

本記事、写真がかなり少ないので(本展「邨田丹陵」展は当然写真撮影禁止でした)、唯一のフォトスポットであった、邨田丹陵先生の実物大全身写真を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を僭越ながら掲載させて頂きます。

相変わらず長いわりには、これといったオチもなく、まことに申し訳ありません。最後まで閲覧頂きましてありがとうございました。

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