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福井市立郷土歴史博物館「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展(2024)

閲覧ありがとうございます。日本絵画一愛好家です。

晩春の過日、福井県福井市の福井市立郷土歴史博物館にて開催されておりました、松平家史料展示室の企画展「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展を拝覧して参りました。

会期は、本年2024年3月16日から5月6日まででした。ということで、福井市立郷土歴史博物館のウェブサイトに僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

福井市のミュージアムとしては、福井県立美術館には何度かお伺いさせて頂いておりますが、福井市立郷土歴史博物館にお伺いするのは初めてでした。

また今回、北陸新幹線が敦賀まで延伸となってから、初めての福井市訪問でした。

正直申し上げて、敦賀から新幹線に乗って福井市にお伺いするのはコスト的にアレでしたので、JR西日本から第三セクターに移管された旧北陸本線の一部である、ハピラインふくいを利用しました。

土曜日だったからなのかもしれませんが、ハピラインふくい、めちゃくちゃ混雑しておりました。普段利用している通勤電車並の込み具合でした。

福井市立郷土歴史博物館は、福井駅から歩いて15分くらいということですが、それほどかからないかもしれません。

福井駅西口を出て、福井鉄道福井駅の方ではなく、恐竜さんたちがいらっしゃる方(恐竜広場)の信号を渡って、福井城址の中の福井県庁横を通って福井城址を出て、大きな通り(「さくら通り」というらしいです)を渡って少し歩くとすぐに福井市立郷土歴史博物館に至ります。

ということで、同館の西側端の看板を、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を僭越ながら掲載させて頂きます。

ご覧の通り、このときのメインの展覧会は、「越前百万石ものがたり~福井藩粗 結城秀康~」展でした。弊方の目的である「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展は、この大きな「越前百万石ものがたり」の看板の右端にちょろっと掲載されております。お分かり頂けますでしょうか?!

本展「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展のポスターも掲示されておりましたので、弊方の微妙なガラケー的なガラホで写真を撮影させて頂いたのですが、光の加減でポスター掲示ケースの表面ガラスに弊方がめっちゃ鮮明に写っておりましたので、いやん恥ずかしい♡♡ ということで掲載を控えさせて頂きます。

福井市立郷土歴史博物館の入口は、さきほどの大きな看板から見て左側、方角で言うと東側に少し歩いたところにあります。ということで、同館入口も、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影いたしましたので、僭越ながらした雑な写真を掲載させて頂きます。

弊方、当初は「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展のみを拝覧するつもりでした。

福井市立郷土歴史博物館は、1階が常設展示室、2階が企画展示室になっているそうで、企画展示室で開催される特別展覧会が、このときは「越前百万石ものがたり」だったということです。

一方、常設展示室は、1階入口から見て奥側に位置するのですが、その手前、入口から見て左側に「松平家史料展示室」という、越前松平家に関する小企画展(?)のような展示を開催する展示室があり、「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展は、この「松平家史料展示室」で開催されているため、常設展の金額で拝覧可能でした。

しかしながら、入口のチケット売り場で入館券を購入するときに、特別展覧会のチケットで常設展も拝覧できること、さらには福井市立郷土歴史博物館の東隣に位置する、名勝「養浩館庭園」も拝覧できるということで、せっかくなので特別展のチケットを購入して同館に入館いたしました。

「越前百万石ものがたり」展ですが、刀剣乱舞ONLINEとコラボされており、企画展示室の入口横には「刀剣男子 石田正宗」さまの等身大パネルが設置されておりました。

また、企画展示室の隣の展示室が臨時のミュージアムショップみたいになっており、コラボグッズ等も販売されておりました。

企画展示室の入口では、「石田正宗」さまと「御手杵」さまと「明石国行」さまの華麗なるお姿が描かれた刀剣乱舞ONLINEの絵葉書が配布されており、弊方もありがたく頂戴いたしました。

僭越ながら、当該絵葉書を本展の半券とともに弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。

「越前百万石ものがたり」展は写真撮影禁止でしたが、「石田正宗」さまの等身大パネルは、当然のごとく写真撮影可であり、弊方がお伺いしたときには、弊方とは異性ですが明らかに弊方と同類のステキヲタク女子の方(もちろん弊方よりずっとお若い方です)が、等身大の「石田正宗」さまとのステキなツーショット的な写真を、スマートフォン略するとなぜかスマホで撮影されており、弊方、たいへん強く共感を覚えました。

弊方も「石田正宗」さまの等身大パネル撮影させて頂いたらよかったかなぁ、とも思いましたが、じつは弊方、刀剣乱舞のことはよく存じ上げないので、ニワカ対応で写真撮影してガチ勢のみなさま方の不評を買わずに済んでよかったのかもしれません。

なお、「越前百万石ものがたり」展は、たいへん興味深く面白かったのですが、その所感については恐れながら省略させて頂きます。越前百万石ものがたり」展のアーカイブが福井市立郷土歴史博物館のウェブサイトにありましたので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

さて、「越前百万石ものがたり」展を拝覧した後、1階に下りて常設展に入らせて頂き、「松平家史料展示室」において「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展を拝覧させて頂きました。

それほど大きな企画展ではないと予想されていましたが、合計17作品が展示されており、思っていたよりも展示作品数は多かったです。「松平家史料展示室」そのものが思っていたよりも大きめな展示室でした。

こちらもアーカイブというか、企画展で配布されていた「展示解説シート」のPDFデータが、福井市立郷土歴史博物館のウェブサイトで公開されておりました。

下記の「展示解説シート」の第1ページ目の画像から、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展・展示解説シート第1面(リンク)

島田墨仙先生に関しては、2011年に福井県立美術館において「福井の宝 島田墨仙展」という展覧会が開催されていたそうです。

弊方、この展覧会どころか島田墨仙先生についても全く存じ上げていなかったのですが、以前に福井県立美術館にお伺いしたときに、販売されていた「島田墨仙展」の図録を購入させて頂き、このような偉大な画人がいらっしゃったことを初めて存じ上げた次第です。

そのような理由で、島田墨仙先生の作品を拝見したかったのですが、これまで拝見する機会がなく、このたび福井市立郷土歴史博物館にて規模が小さそうではあるものの「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展が開催されるというヒミツ情報を同館ウェブサイトからゲットし、同館にお伺いしたという次第です。

ちなみに、本記事の投稿時点でも「島田墨仙展」図録は福井県立美術館において販売中の模様です。僭越ながら福井県立美術館ウェブサイトのトップページにリンクを張らせて頂きますので、「美術館について」タグの「各種刊行物」の「図録」をチェックして頂ければと思います。

島田墨仙先生の父上である島田雪谷先生は、先ほどの「展示解説シート」にも記載されております通り、福井藩士であって藩の御用絵師ではなかったものの、画技に秀でていたそうで、福井藩の御用もお務めになられたそうです。

先ほどの「島田墨仙展」図録には、福井県立美術館学芸員の佐々木美帆先生の論文「画壇の志士 島田墨仙」(「島田墨仙展」図録第144-150ページ)が掲載されており、同論文によれば、雪谷先生は、福井藩の下級武士の家にお生れになり、文武両道で武術や書画に秀で、槍術と書画については、幕末の名君・松平春嶽公に指南できるほどであったそうです。

雪谷先生は奥様の照子さまとの間に、少なくとも3男2女のお子様を設けられたそうで(同論文では墨仙先生のご兄弟の確定的な人数は明記されておりませんでした)、そのうち、墨仙先生は次男だったそうです。

墨仙先生のお兄様である島田雪湖先生は、跡取りということで幼いころから雪谷先生の指導のもと画家を目指して修行されたそうで、十代ですでに新聞挿絵の仕事が入るほど優れた方だったそうです。

本展「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展では、雪湖先生の作品も展示されておりました。作品No. 9「瀑布図」、掛軸作品です。

なお、本展「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展も当然のごとく写真撮影禁止ですので、残念ながら「瀑布図」の画像はございません。インターネット上で公開されているかも?! と思って安直な検索で調べてみましたが、そもそも雪湖先生の検索結果じたいが非常に少なく、画像を見出すことはできませんでした。

一方、墨仙先生はというと、幼いころから非常に誇り高い方だったようで、「武士」の家柄ということで画家ではなく軍人を目指されたそうです。しかしながら、墨仙先生は、視力が十分でないことで陸軍の人材養成機関(陸軍士官学校、陸軍教導団)に合格することができなかったらしく、結果的に、兄の雪湖先生と同様に画家を目指すことになったそうです。

兄の雪湖先生は、雪谷先生がお亡くなりになったあと、お父上の画塾を引き継いで頑張っておられたそうですが、その後、お母上(照子さま)が無くなると「放蕩を覚え、道を踏み外した」(「島田墨仙」展第145ページ下段第25行)そうで、当時、教師をしながら独学で画家を目指されていた墨仙先生の給料まで使い込んで、最終的には東京に出て行ってしまったそうです。

福井に残された墨仙先生は、何とか頑張って働き続けて二人の妹を武家に嫁入りさせて、何とか「家長」としての役目を果した後に東京に出られたそうで、最終的には、橋本雅邦先生の門下になったそうです。

一方、雪湖先生は、東京では、偉大なる巨匠・久保田米僊先生のお世話になり、そのご縁で、寺崎広業先生、小堀鞆音先生、島崎柳塢先生ら著名な画人の先生方と交友されたそうです。

そもそも「雪湖は大変な美男子である上、人好きする性格だったようで否が応でも交友関係が広がり」(「島田墨仙」展第146ページ上段第15-16行)ということだそうで、墨仙先生が東京に出てこられたときには、めちゃくちゃ迷惑かけられた兄・雪湖先生の人脈のお世話になったらしいです。

さらに雪湖先生は、米僊先生から米国人のヘンリー・パイク・ブイ(Henry Pike Bowie)先生を紹介され、その縁で1901年にアメリカ合衆国に渡られ、何度もアメリカで展覧会を開催されたそうで、本来なら多くの作品がアメリカに残っているはずなのですが、アメリカでの作品の所在は不明だそうです。

その後、アメリカで反日的な雰囲気が強くなってきたため、1912年に雪湖先生はアメリカから日本に帰国されるのですが、残念ながら帰国途中に船中でお亡くなりになったそうです。酒の飲みすぎが原因の胃がんだったそうです。

福井県立美術館の「島田墨仙展」図録には、数点の雪湖先生の作品が掲載されておりましたが、本展「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展で展示されていた作品No. 9「瀑布図」の掲載はありませんでしたので、この作品は比較的最近存在が確認された作品なのかもしれません。

雪湖先生は、アメリカに渡る前は、アメリカ海洋調査船に記録画家として乗船していたそうで、当時まだ写真技術が不十分だった時代に、記録画として緻密な魚類の記録画を描かれたそうです。その一部がアメリカのスミソニアン博物館に現存しているそうです。

「島田墨仙展」図録の第161ページには、参考図版として雪湖先生の魚類の写生画が「参考図版」として掲載されておりました。表題は“List of Fishes dredged by the Steamer Albatross off the coast of Japan in the Summer of 1900, with description of new species and a review of the Japanese Macrourid Æ”であり、1904年にアメリカ合衆国政府から発行されたものだそうです(個人蔵)。

スミソニアン博物館に所蔵される雪湖先生の原本ではなく、アメリカ政府発行の書籍ということですが、記録画の緻密さの参考として、同展図録から雪湖先生の魚類画を、僭越ながら弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真を掲載させて頂きます。

「島田墨仙展」図録第161ページ「参考図版 雪湖」より

ご覧の通り、雑な写真でも高精細な描写が把握して頂けるかと思います。雪湖先生は、海中での魚の様子を把握するために「釣鐘型潜水器」という当時の水中作業用の潜水装置で海中に潜られたそうです(「島田墨仙展」図録第137ページ下段第14-18行)。

ちなみにヘンリー・パイク・ブイ先生は、ハーグ国際司法裁判所の判事を務められた偉大なる法律家であるだけでなく、1894年に来日され、西川桃嶺先生と久保田米僊先生に師事され、その後、雪湖先生と墨仙先生のご兄弟にも師事され、合計9年間も日本画を学習され、最終的には日本で展覧会に出品して受賞されたこともあるという、「日本画家」でもあったそうです。

さらにちなみにですが、ブイ先生のお孫さんに当たるのが、皆さまご存知の、偉大なるエレガントな荒くれ料理研究家でお馴染みの、平野レミ先生だそうです。

さて、墨仙先生はというと、橋本雅邦先生の門下で画技の研鑽に努められ、展覧会で入選・褒状の栄誉を受けられたそうですが、酒の飲みすぎが原因で体調を壊されたそうです。

雪湖先生も墨仙先生も、ご兄弟そろって酒の飲みすぎというのは、弊方的にはたいへんたいへん親近感を覚えるのですが、弊方も、たいがい高齢になってきましたので、気を付けたいと思います。

その後、福島県で学校の先生などを勤められながら展覧会への出品も続けられていたそうで、その後に先生をお辞めになって本格的に画壇に復帰され、最終的には帝国美術院の委員となり、1943年(昭和18年)には、日本画部門初の帝国芸術院賞を受賞されたということです。

受賞作は、前年の新文展に出品された「山鹿素行先生」で、「島田墨仙展」の表紙にも採用されております。文化遺産オンラインに画像が公開されていますので、僭越ながらリンクを張らせて頂きます。

この「山鹿素行先生」からもお分かりかと思いますが、墨仙先生の作品を拝見すると、淡い色彩で表現も繊細で、豪快ではなく端麗という感じがいたしました。

この端麗な印象は、安田靫彦先生に雰囲気的に似ているような気もします。安田靫彦先生は前田青邨先生と並ぶ歴史画の大家ですが、墨仙先生は靫彦先生の先駆者的な存在だったといえるのでしょうか?

墨仙先生ご自身は、「武家」出身を強く自覚する誇り高く、酒飲みで豪快な方のようなのですが、この豪快なご本人と端麗な作品のギャップが激しく、おっさんギャップ萌えしそうです。

墨仙先生が活躍された時代は、豪華で煌びやかな大作が好まれたそうですので、墨仙先生はその時代の流れに逆らって(?)ご自身の美学を追求されて作品を描かれたのかもしれません。

そうはいっても、帝国芸術院賞を受賞されるくらいスゴイ画人でいらっしゃるのに、現在の知名度がかなり低いと思います。

この点について、佐々木美帆先生の論文「画壇の志士 島田墨仙」では、具体的なご指摘がなされておりました。少々長くなりますが、僭越ながら引用させて頂きます。

 子どもがいない墨仙は意に満たぬ作品を世の中に残すことのないように、毎年作品の焼却を重ねてきた。昭和十八年に墨仙が亡くなると、遺言によって下絵の殆どは妻節衣子が焼却したが、夫の制作の苦労を知る節衣子にとって、代表作の下絵を燃やす事は流石に耐え難かったと見え、翌年、東京国立博物館にそれらは寄贈された。墨仙の作品は、活動拠点であった福井、福島、東京の三ヵ所を中心に残されたものの、いすれの都市も戦災に遭い、その多くは失われたと思われる。そして、死後十年も経つと、墨仙の名は一部の美術愛好家を除いて殆ど忘れ去られてしまった。
 墨仙は常から死語に遺作展をしないようにと厳重に言い渡していたことに加え、兄弟全員子どもがおらず島田家が絶え、晩年には弟子も取らなかったために資料を受け継ぐ者が無かったことが、人々の忘却を早めた原因に挙げられる。

「画壇の志士 島田墨仙」佐々木美帆、「島田墨仙展」図録第151ページ上段第3-11行

遺作展をしない、粉本類を処分する、晩年は弟子も取らない、という墨仙先生の「孤高の画人」としてのあり方は、たいへん厳しいものですが、弊方個人的には、もったいないというか、後世の愛好家のことも考えておくんなはれ、という感じで未練がましいことを言いたくなってしまいます。

それにしても、生前はたいへん著名であったにも関わらず、お亡くなりになった後の顕彰がなされない(墨仙先生の場合は、顕彰できない?!)ことで知名度が失われている画人の先生方は多いように思っております。

そういった意味でも、本展「日本画家 島田雪谷・墨仙親子」展は、弊方的には素晴らしいおっさん激萌え企画展だったと思いました。

なお、残念ながら写真が少ないので、名勝「養浩館庭園」を拝覧したときに、弊方の微妙なガラケー的なガラホで撮影した雑な写真のひとつを、僭越ながら掲載させて頂きます。

ということで、やはり長くなりますね。いつまでも我が人生で最も悲しい出来事を引きずるわけにもいかず、短めにして投稿頻度を上げようと思ったのですが、なかなかうまくいきません。

最後まで閲覧頂きありがとうございました。

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