生きてていいよ、の話

たまに、自分が生きてていいのかわからなくなる。

だいたいそういう時は疲れてるな、と思うのだが、その一方で、凄く潜在的に、「生きていていいよ」という許可を、誰かに貰えないかと切に願っている自分も自覚する。

私は自分のことは好きなはずだ。

顔も、スタイルも、性格も、特にコンプレックスはないし、自分のやりたいことに挑戦し続けられる強い精神も持ってる。

自分のことは好き、だけど、「生きてていい」という自信はあまりない。

誰かの役に立たなきゃいけない、とか、誰かのために生きなきゃいけない、とか、そういう感覚もないのに、何故か、自分がここに存在していていいのか、疑問に思ってしまう。

許可

昔読んだ漫画に、
「人は誰かに生きてていいと言われないと、生きていられないんだ」
的な言葉があった。

「生きてていい」という許可。


まさに私が必要としているのは、その許可だった。
でも口先で軽く言われる許可が欲しいんじゃない。もっと深いところで感じられる許可が必要なんだ。

要は、「愛されている」という自覚。

愛されていない訳では無いけれど、ある種の十字架を背負ったまま生きている私は、条件付きの愛しか知らない。いや、知らないわけではないが、そう簡単には知覚できないんだ。

だから、積極的に声にする。
「恵まれている」「愛されている」と。

でもそれは、自分に言い聞かせているのだ。
心の奥底で、ずっとそれに疑問を持ち続ける自分がいることを、自覚して。

きっと十字架を背負った私では、「自分を愛する」ことは何かができて初めて出来ることだし、「生きていていい」と確信を持てない。

誰かに、「生きてていいよ」と許可を貰わないと。


存在意義なんて、誰も持っていない。とんでもない言い方をすれば、みんな、別に、死んだっていい存在だ。

だけど、生きている。それは、自分は生きていていいんだと、確信を持てるからのように思う。その確信は、自分自身で持てるものではなく、「愛されている」という自覚が、無条件の愛が、作るものなんだろうな。

深く根付いた、「愛」こそ、存在意義がない人間でも、生きてていいと思える理由なんだと思う。

そして、それが小さい自分は、誰に言われた訳でもないのに、「生きてていいのか?」と、自問自答し続ける。

いつか、誰かに、「生きてていい」と許可を貰う日まで。

いつか、誰かに、愛される日まで。

それまで私は、揺るぎ続ける存在意義の中で、生きていくしかない。

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