らしい、話

私らしく

とか

自分なりに

とか。


世の中はそうやって「私らしさ」なんてものを規定しようとしてくるけど、果たしてそれは、本当に「自分らしく」いられるのだろうか。

「っぽい」

って言われること、ないですか。

例えば、服屋で見つけた服を見て、
「これ、○○っぽいね、○○着てそう」
とか、あるじゃないですか。

他人から見た自分。
それを指摘されると、気にしちゃうじゃないですか。自分はこういう格好をしてるっぽい人間なんだ、とか、自分はこういうことをするっぽい人間なんだ、とか。

そうやって指摘されると、自ずから「これは私っぽい」とか、「これは私っぽくないな」って、自分が固定化されたイメージの元に取捨選択を行ってしまうんです。

それ、本当に「っぽい」んですかね?
他人から見たあなたは、自分自身が見ているあなたのウン十分の一だと思いますよ?

それに縛られて、自分の選択するものを決めて、そういうふうに振る舞って。

もう、生きにくくないですか?

「らしさ」の規定

って何?って、思うんです。

「らしさ」って、規定された瞬間、他人から見た自分像の具現化でしかなくなりません?
これが「私らしい」とか、大体にして伝聞の言い方じゃないですか。日本語合ってるかわからないけど。

誰かから人づてに聞いたことについて、「らしい」って使うわけで、「私」という存在が「らしい」という人づての言葉に定義されるのは、本当に自分が自分として生きていける姿になるのでしょうか。

他人から定義されたような私が、自分の人生を歩くのは苦しくないですか?
そんなものに合わせて生きるほど、あなたは暇じゃないはずで、他人も同じく暇じゃないはずなのに、周りの人の「外壁」ばかりをベタベタ塗って。

世の中って、「らしさ」に囚われていると思うんです。他人が決めた、よくわかりもしない知らない「らしさ」に。

LGBTQだの、HSPだの色々ありますけど、そんなの他人が作った枠でしかなくて、細かく分ければもっともっと細分化されていくと思うんです。

昨今はその傾向が顕著です。人間は、自分を何かのカテゴリーに分類したがる傾向があって、その群衆の中にいるということで安心感を得ようとする。

それがどんどん、どんどん、細かくなっていっていて、もう何が何だかわからないくらいになっていて。ただそのラベルがあることに安心して、わかった気になって。

そのラベル自体は、あなたではないんですよ。
他人が勝手に決めたラベルを自分にぺたぺた貼って、あなたらしさを型に落とし込んで、当てはめて、それで自分だと思い込んで、でもどこかに違和感は抱いていて。

もうどうでもいいじゃないですか。あなたらしいとか、なんでもよくないですか。

あなたと同じ人間なんて、この世に居ないんだから。


「らしさ」なんてないさ

おばけと一緒なんですよ、「らしさ」なんてないんです。寝ぼけた人が見間違えた並に、集団心理の中で出来た偶像にすぎないんです。

自分らしく生きるために、なんて胡散臭いこと言ってる自己啓発本とか、どうでもよくて。
そんなこと、考えなくていいんです。

だって、自分らしく生きるって考えて生きてる時点で、誰かに規定された「あなたらしさ」の元で生きることになるわけで。

ナチュラルに、感じるままに、やりたいように生きていけば、それが本当の「あなた」になるはずなんです。
誰かから聞いた「あなたらしさ」ではなく、自分で自覚した自己である「あなた」に。

他人から見た自分を自覚することももちろん、大切ではあります。そうやって自分のことを知っていくこともあります。他人の指摘が無意識を意識の中に引っ張りこんで来ることもあります。

でも、だからといって、「あなた」までもがそれに準拠する必要は無い。

「あなたらしく」生きなくてもいい。

「あなた」として生きる。
それが真に、自分自身を尊重した、生き方になるのではないですかね。

らしさ、なんて言葉に囚われることなく、我が道を行く。それが本当に開放された行き方なのではないかと、私はふと、そんなことを思うわけです。

この記事が参加している募集

#多様性を考える

28,078件

#新生活をたのしく

47,902件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?