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2005年春、私はお風呂で悟りました。

はじめまして。シロイハトです。

皆様の人生は、今、お幸せですか…?
この世に生きていることに、喜びを感じておられますか…?

喜びを感じながら、幸せに暮らしておられるなら、なによりですね。

でも、
「こんな人生、ちっともおもしろくない」
「なんで私ばかり、こんな目に合うのだろう」
「こんなに頑張っているのに、なぜ私は誰からも認められないんだろう」
「どうしてこんな世の中なんだろう」
「こんな人生、こんな世の中に、生きている意味なんてあるんだろうか」
「生きているのがつらい」
「いっそ死んでしまいたい…」

そんなふうに、ヒリヒリと痛んだ心で、泣きたいような気持ちで、なんとか日々を生きておられる方も…いらっしゃるかもしれません。

31歳までの私が、そうでした。

今でこそ、色々あるけれど幸せな気持ちで人生を送り、この世に生きていることに心からの感謝と喜びを感じている私ですが、
幼い頃、ほんの幼稚園の頃から、私は「この世で生きる」ということの意味がよく分からなくて、とても苦しんでいました。

この記事では、自己紹介を兼ねて、
そんな私が悟りへ至った経緯を、分かち合わせていただきたいと思います。

さて、私の家系は霊的感受性の強い者が多いのですが、
今思えば、私も当時からすでに、霊的な感受性が人よりも少し強かったのかもしれません。
幼い頃の私は人の中にある怖さが見えてしまい、人に接するのが恐ろしくて仕方がありませんでした。
もちろん極度の人見知り。
中には、たましいの光が輝いているような素敵な方もいましたが、やはり、この世の大半の方は、その光に蓋をする暗い影を背負ってあがいており、

もちろん、私もその一人でした。

「こんなにつらい思いをしながら、人はなぜ、それでもこの世に生きなくてはならないのだろう…」

自分や人を覆う影に怯えながら、いつもそんなことを考えている子どもだったんです。

小学生になってお小遣いをもらうようになると、私は占いの世界にのめり込みました。

「自分がこの世に生まれてきた意味」を、どうしても知りたかったのです。

お小遣いをもらうとすぐに本屋さんへ行き、新しい占いの本を買ってきました。

当時はまだパソコンといったものもなく、電卓でさえ小学生には身近ではなかった時代、私は天文歴を見ながら覚えたてのひっ算を使って複雑な星の計算をし、詳細なホロスコープを作ったりもしていました。
ホロスコープに限らず、四柱推命、数秘術、手相…、ありとあらゆる占いを研究し、大人が読んでも難しいような本と格闘したり、星を導き出すための複雑な計算を日々コツコツとこなしたり…。

そんなふうに人知れず占いの研究に没頭する日々の中で、次第に「自分」というものが分かってきて、世の中には様々な個性を持った人がいるのだ、ということは分かってきました。

しかし、「そもそも、なぜ人はこの世に生まれてくるのか」という大命題には、占いも答えを出してはくれませんでした。

宇宙学や生物学、哲学、宗教…、思いつく限りの様々な分野にその答えを求めましたが、
高校生辺りになると、「答え」を得ることにあきらめも見え始め、
私は「自殺」ということを、しきりに考えるようになっていました。

悩みは色々とあれど、決定的な何かがあったわけではありません。

ただ、「生きる意味」が分からないままで生きていくことが、
どうにもむなしく思えて、仕方がなかったのです。

自分は単に、息をして、食べて、眠る、ただの生物であって、
本当に「生きている」とは、言えない気がしたのです。

大学生の時には「自殺願望」もピークに達し、
特に、お酒が入ると破壊衝動が増して、友人には度々迷惑をかけました。

結局、「自殺」するほどの勇気もない私。

それになぜか、心の奥底では、「自殺はいけないことだ」と言い切る自分がいる。


「生まれてくる意味が分からない」

でも、「死んでもいけない」


一体、人間って何なのだ…??


本当に、もがき苦しみました。

すべてが、ただただ、虚しくて仕方がありませんでした。

走っている車の前に飛び出そうとしたことも、一度や二度ではありません。

そして、就職してからも悩みに悩んで身も心もボロボロになるほど苦しみ抜いた私は、
28歳で結婚して仕事を退職し、
すると、なんとなく幸せな気持ちになって、
何の問題も解決していないのに、流されるように、ただ淡々と生活していました。

もう完全に、「世捨て人」のような感覚です。
悪い意味で。


そんな私に、大きな衝撃が走りました。


30歳の時、とてもとても身近な方が、自殺をされたのです。


ショックでした。


おまけに、故人の感情が私の中に入ってくるという初めての憑依体験をし、
その時に感じたのは…、もう例えようもないほどの悲しみ…。

自殺をしてしまったことへの、深い深い後悔、
愛する人々と離れ離れになることへの、胸の張り裂けそうな悲しみ…。

私が想像していたものとは、似ても似つかない…、

「なんていうことをしてしまったんだろう…!!!」という、言葉にならないたましいの絶叫。

底知れぬほどの深い後悔に満ちた、それはそれは悲しい感情でした…。


そして私は、心の底から、「やはり自殺はしてはいけないことだ」と思ったのです。


でも、「なぜ?」

「なぜ自殺をしてはいけないの?」

「なぜ後悔をするの?」


私はまた、深い深い心の闇に沈み込み始めました。


「人は何のために生きているのだろう?」

「なぜ自殺をしてはいけないのだろう?」


幼い頃の純粋な問いが、再び戻ってきました。


毎日毎日、考えました。

色々な本を、読みあさりました。
江原啓之さんの本に出会ったのも、この頃です。

でも、何を聞いても何を読んでも、どうしても納得がいきませんでした。


そんな時に、1冊の本に出会いました。

それは、太陽と月だけを取り上げたホロスコープ解読の本なのですが、私と同じパターンを持つ有名人の中に、「エドガー・ケイシー」という人物の名前があったのです。
その世界ではとても有名な方なのですが、当時の私はまったく聞いたことのない名前でした。
ただ、「催眠透視者」という肩書きに興味を持ったのと、なぜかその名前が頭から離れなかったこともあり、
その方の本を、試しに一冊買ってみました。

そして、興味深くその本を読み進めた末の、
2005年4月のある夜…、

私は湯舟に浸かりながら、その本の最後の部分を読み終わろうとしていました。

恥ずかしながら私は、お風呂で本を読むのが、昔からのお気に入りの習慣なのです。

その本の最後の部分に、エドガー・ケイシーが催眠状態で残したいくつかの言葉が書かれていたのですが、
その最後の最後に、こういう言葉があったのです。


「苦しみに満ち、血で汚された世界ではあるが、あなたの祈り、あなたの祝福が新しい希望をもたらすのだ。そしていつか地上に喜びが溢れ、人々の間に平和の花の咲く日が来るだろう」


この文章を、読み終わった瞬間です。


私の頭の中の何かが、パーッと弾けました。


自分の頭から宇宙へ向かって、何かが広がり、

宇宙全体と私の頭が、完全につながったんです。


浴室の天井が、なくなった感じ。


浴室にいるのに、私は宇宙を見ました。



私は、呆然となって、宇宙を見つめます…。


宇宙は、青く蒼く澄み渡り、どこまでも大きく広がり、


そして、その宇宙には、多くの愛に満ちたたましいが、充満しているのを感じました。


そのたましいたちは、静かに威厳を持って、

しかし、とてもとても温かく、この地球を、そして今の私を見守っています…。



そのとき、私は、すべてを思い出したんです。



そうだ…!


私もかつて、この宇宙の中にいた!


そして、自ら望んで、この地球に生まれてきたんだった!


それは、自分のたましいを磨くため、修行をするためだった…!



ああ、そうだった。


私は、「たましい」なんだ!


この世はすべて、仮の姿なんだ…!


すべての人は「たましい」であり、

たましいは、もともと一つで、みんなつながっているんだ!


私は、一人じゃなかったんだ…!



私は、お風呂の中で、それはそれは激しく、泣きじゃくりました。


すべてを思い出したことが嬉しくて、


宇宙の大いなる愛に包まれていることを、思い出せたことが嬉しくて、


この世に生まれたことの意味を、思い出せたことが嬉しくて、


宇宙のあまりの大きさに感動して、


そして、今まで31年間悩みながら、でも真剣に生きてきた自分が愛おしくて、


ワンワンワンワン泣きました。


特別な私になろうとするのではなく、

私はただ私であることだけで、充分に祝福される存在だったのだ…。


「個」は「全」であり、「全」は「個」なのだ…。


すべてのたましいの根本は、愛と光なのだ…。


「生きている」、そのこと自体に大きな意味があるのだ…。


そして、再び目を開けたとき、

私は、今まで白黒だった世界が、急に色つきになったように感じました。


世の中は、こんなに鮮やかだったかしら…?


生まれてから31年間、目を閉じたまま生きてきて、今やっと、その目を開いたような感じ。


「私は生きている」という実感、その喜びが、心の底から湧き上がりました…。


私は、この瞬間に、本当の意味で、この世に生まれました。

……

それ以来、私の視点は、すべて宇宙からの視点に変わってしまいました。

人格も、まるで別人です。

今まで、大きなおうちのたった一部屋で生きていたのが、急におうち全体を、自由に歩き回れるようになった感じです。

自分も人も、「たましい」の状態で、見るようになりました。

そうすると、この世のすべての人に、愛を感じます。


色々な人と出会い、喜んだり悩んだり、泣いたり笑ったり、

この世で生きている、そのこと自体がとても素晴らしいと、心から思えます。


そして、いつも宇宙から私たちを見守る愛の存在を感じ、感謝の念を覚えます。

……

「悟りがお風呂で訪れた」なんて、驚かれる方も多いでしょう。

でも、私の人生を、誰よりもよく知る私にとっては、それはとても必然なことに思えます。

それに、「裸で水の中にいる」という状態は、母親の羊水に包まれていたときに似て、新たな誕生にふさわしいようにも思えます。

お風呂からザブリとあがった私は、文字通り「生まれ」変わったのですから…。


「悟り」のきっかけになった文章についても、もちろんとても素敵で大切な言葉ですが、今では何の衝撃も受けません。

きっと人それぞれ、「悟り」のきっかけやタイミングというものがあるのでしょうね。


また、よく勘違いされるのですが、「悟り」を得たからといって、急に聖人になれるわけではありません。笑

悩みもすれば、怒りもします。
泣くこともあります。

ただ、その「意味」が分かるようになりました。

どこへ向かっていけばいいのかが、分かるようになりました。


お釈迦様の言葉に、こんな言葉があります。

「悟りとは、修行の最終目的ではなく、究極の目的は、すべてのものを悟りに導くこと。
 悟りを、日々の生活の中で実践すること」


「悟りを日々の生活の中で実践する」という私の修行は、もちろんまだまだ続いています。
そして「すべてのものを悟りに導く」というお釈迦様やキリスト様以来綿々と続くライトワーカー全員の最終目的…、
私の活動もその目的達成の小さな一助になればと、このnoteを始めた次第です。

……

私はこのような経緯で悟りに至りましたが、
自身の霊的成長と共に、
実は悟りの「きっかけ」は、特別な生き方や特別な修行の中にだけあるのではなく、日常生活のあちらこちらに散りばめられているということ…、
むしろ天国への階段は日常生活の中でこそ登れる…ということに気づいてきました。

人によって、人生のいつどこでその「きっかけ」に出会うかは、本当に様々。
そして悟りには「早い」も「遅い」もありません。

私も、先に覚醒されたエドガー・ケイシーの文章にきっかけをいただいたように、
ほんの一足先に真理を思い出させていただいた私が、世界をどのような視点で見つめ、どのように捉えながら暮らしているのか、身近な日常生活のエピソードをご紹介することで、どなたかの霊的覚醒のきっかけになれたなら、これほど幸せなことはありません。

いきなり悟りに至らなくても、日々読んでいただくだけで、ご自分では自覚できなくても、あなたのたましいは、少しずつ、でも確実に、本来備わる霊的視点を思い出し、人生が真の幸福と真の豊かさで彩られていくでしょう。

そして、少しずつ階段を登られたその先に…、
きっとあなた様にも「天国へのドア」が開かれますように…。

視点が変わることで、この世に生きる真の喜びに気づいていただけますように…。

そう願いながら、日々心を込めて、記事をお届けさせていただきます。

……

長い自己紹介となりました。
読んでくださって、ありがとうございました。

そして、これからどうぞよろしくお願いいたします。



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