見出し画像

ひとびとの寛容とネットによる可視化と

10月は、下書きはしていたのだが、結局投稿できずじまいだった。いかんいかん。月1投稿はキープしたい。

今回は教育方面の話をまず書こうかと思う。先日、奥さんからこんな話を聞いた。ある子供(小学生)が、別な子の机を使っていたらしいのだが、その別な子が戻ってきて自分の机が使われていることを見て、じっと待っていたらしい。そして、しびれを切らして(?)なのか、無言で自分の持ち物をぐいぐい机に載せていったんだとか。見ていた奥さんは、そういう時は声をかけて自分の机だからどけて欲しいと伝えなさいと言ったそうだ。そこまでは、まぁいいのだが、その使っていた子が作業を終えて、よけたときもその子になにも声をかけないで、立ち去ろうとしたので、そこでもちゃんと声をかけてありがとうの一言もあるべきだろうと言うことになったいう話だった。これもまぁその通り。みんながそうというわけではないが、こういう子供をみかけるようになってきたのだそうだ。

で、この話を聞いてふと思った。満員電車に乗っていると降りるときに無言でぐいぐい押して降りていく人がとても多いように思う。(山手線が異常なだけかもしれないが。)上の話は結局これと根っこは一緒なのではないのかと思った。ひどい言い方をすれば、自分以外の周りは、モノみたいなもので、邪魔ならよけようということだ。いちいち個々に対話をしていてはキリがないからということなのかもしれない。世の中独我論者が増えてきたとも思えないので、これはやはり協調性の欠如ということなのだろう。協調性は、小学校以前に家庭で育まれるべきもののように感じるが、親世代が山手線の乗降のような感性であるのなら、子供がそうなるはずもない。

一方で、こんな話もある。

このサービス、私もJALのサイトで存在を気づき、微妙だなと直感していたことを思い出した。やはり同様に感じた人はけっこういたようで、記事中でも書かれるように、厄介者の可視化と捉えられたようだ。私も子供がいるので、子連れ旅行の大変さはよくわかるし、泣かさないようにするのは、そもそも海外の長時間フライトでは無理だろうことはわかる。しかし、もっと思いやりをという言い分には、微妙に肯定できない自分がいる。色々な事情の人が狭い空間に長時間閉じ込められているのだから、ストレスが発生するのは致し方ないだろう。だが、日系の飛行機に乗った時だけに感じるこの厄介者扱い感というのが、上の二例の延長が根底にあるのではないのかと感じるのだ。

日本が不寛容社会になってきたと言われるのを目にするが、それはやはり戦後の教育が全世代に行き渡った結果なのではないかと思う。学校というだけでなく、家庭における子供への対応も含まれる。むしろ今回の話は、家庭における親の態度が次以降の世代が形成されている気がするが。果たして今後の世代の若者たちはどのような社会を形成していくのだろうか。一周回って寛容になるかもしれないというのは楽観的過ぎるだろうか?

日々思っていることを形に。こういうところに残しておけるのは良い時代になったと感じています。BBSのログとか復活させたくなります。