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体で美しいと感ずる心

先日、あるギャラリーで、個展開催中の油絵画家である岩松是親さんとお話する機会がありました。岩松さんは銀座の老舗額縁店に生まれ、額縁の仕事でたくさんの画壇大家と接したことをきっかけに、自らも画家になれた方です。

こんな言葉が印象に残りました。

「額縁職人を大勢育ててきたが、出来がいい者は最初から、作業をするときの姿形が美しい。それは、どんな仕事においても言えるのではないか。」

人は、無駄を削ぎ落して効果的に動いているものに惹かれ、それを「美しい」と感じるものなのかもしれません。例えば、全盛期の白鵬関の相撲も姿形も、強くかつ美しく感じました。また、優れた職人の作業は、どれだけ見ていても飽きることはありません。「理に適っている」という言葉がありますが、それと美には関連がありそうです。

以前も引用しましたが、小林秀雄はこう書いています。

「美しい花がある。花の美しさというようなものはない」(「当麻」より)

抽象的概念である「美」から「美しいもの」が規定されるのではなく、ヒトが美しいものだと感じるのが先で、それらの共通項が「美」という概念に集約されるにすぎない、と言っているのではないでしょうか。

では、どう「美しいもの」を感じとるのか。それはヒトの本性に根差す気がします。私たち弱いホモサピエンスは、「美しいもの」を見定める能力を獲得することで、厳しい生存競争を生き抜けたのかもしれません(例えば、体に悪い食べものを「臭い」と嫌悪するのと同じように)。「美しいもの」を感じる力が生存戦略に有効だとしても、問題は今を生きる私たちが「美しいもの」を認識する能力を持っているかどうかです。

今朝の朝日新聞の浜美枝さんのコラムに、こんなことが書いてありました。民藝運動に造詣が深い浜さんは、松本における民藝の第一人者である池田三四郎さんに、美しさとは何かを尋ねたそうです。すると、池田さんはこう答えました。

「一本のネギにも、一本の大根にも、この世の自然の造形物のどんなものにも美がある。問題は人間がそれを美しいと感じる心を体で会得しているかどうかなんだ。」

私たちは、知識をベースに意識の中の抽象概念としての「美」に囚われて、本当の「美しいもの」を見る能力を減退させてはいないでしょうか。美しさは頭で理解するものではなく、体で「会得」するもの。体のセンサーが衰えている気がします。

岩松さんはコロナ禍で窮屈な生活を強いられているときも、花を見て癒されてきたそうです。だから今回の個展にも、たくさんの花の絵が出品されています。

そういわれて、私自身はそれほど美しい花に、あまり心が動かされることはなったことに気づき、ドキッとしました。美しい花は人を癒し、そして生命力をもたらすのでしょうが、それを感じる力が弱かった。

美は造形物に存在するのみならず、人の生き方や考え方、心にも存在すると思います。判断に迷ったときはシンプルな方を選ぶべきと言われますが、シンプルな選択肢の方を人は美しいと感じ、きっとそちらの方が生存に有利なのでしょう。

生きていくこととは、美しいものを探しながら、美しいと感じる心を磨き続けることなのかもしれません。そうすれば、美しくない生き方などできなくなる気がします。

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