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美しいものがわかる能力
幸せになるための条件とは何だと思いますか?
それについて、私は二十代の頃から、ことあるごとにユングの以下の言葉を思い出します。
幸せになるための条件は、一番に健康、二番目に自分がこれでいいと思うぐらいのお金、三番目は人間関係、四番目に美しいものがわかる能力、五番目は朝起きたときにしなくてはいけないことを何か持っていること、六番目は人生の障害にぶつかったときそれを解決できる能力
若い頃の私は、とても実践的だと思いましたが、四番目に「美しいものがわかる能力」が入っているのはちょっと違和感がありました。最も重要な能力がそれ?
でも、だんだんとわかってきました。美しいものが何かわからなければ、美しいものに触れる機会も少なくなり、美しい判断も美しい行動も取ることはできない。また美しい心を持った人と交わることもできず、自らの生き方を美しくすることはできません。つまり幸福になれない。
そうした能力を高めるには、美しいもの、美しい人、美しい考え方などにたくさんたくさん触れるしかないと思います。「美しい花がある。花の美しさというようなものはない」(「当麻」より)とは小林秀雄の言葉ですが、観念として美を追いかけても無意味であり、現実世界の美しい存在とインタラクティブに接する中で獲得していくものなのだと思います。
最近知ったのですが、アウシュビッツからの生還者であり精神科医のV・Eフランクルは、人間が実現できる価値は、創造価値と体験価値と態度価値の三つに分類されるとしています。そのうちの体験価値について、こう書いています。
行動する存在としてだけではなく(何かを)愛する存在としても、美しいものや、偉大なもの、善いものを愛しそれに身をささげることによって、人生のさまざまな要求を満たすことができるのです。(中略)芸術だけでなく自然を体験した人にしても、同じことでしょうし、一人の人間を体験した人にしても同じことなのです。(「それでも人生にイエスと言う」より)
美や善、偉大さを備えた存在を愛し体験することによって、人生を意味のあるもの、価値あるものにすることができるというのです。つまり単なる喜びなどではなく、それによって自分自身を変えうるという。
ただその前提として、やはり美しいものがわかることが必要です。それは決して知性や思考によってではありません。もっと人間の奥深くにあるものによってではないでしょうか。
神経科学者のダマシオはこう言います。
自己や意識の根底には、安定した有機体の内部環境から生まれる「原自己(protoself)」があるとし、それを抜きにして自己意識や思考、感情といったものを考えることはできない。(「デカルトの誤り」より)
私は、この原自己は魂のような存在で、美しいものや善いことを生まれつき「知っている」のではないかと思っています。鉄道ホームから人が線路に落ちたのを見て、反射的に飛び降り救出しようとして亡くなった韓国の青年のように。もしかしたら、私たちがしなければならないのは、美しいものや善いものがわかる能力を獲得していくのではなく、もともと持っているそれらを覆い隠しているベールをはがしていくことなのかもしれません。
話は少々ずれますが、現在の日本では、そうした体験価値を生み出す美や芸術は金持ちの道楽としか思われていないのか、コロナ禍においては不要不急なものと見なされています。きっと、美しいものをこれまで述べてきたように正当に評価するのではなく、投資の対象として見なす風潮があるからではないかと推測します(近年それをもてはやすマスコミもあります)。
ドイツとは大変な違いです。ドイツでは、身体の栄養源としての食料に対して、精神の栄養源としての芸術(≒美の創造)だと認識されています。困難な時期こそ、精神の栄養は必要になるはずです。
ところで、かつて日本近代の偉大な経営者は、有り余る財力を芸術作品の収集や芸術家の支援につかいました。現在、美術館所蔵という形で我々はその恩恵にあずかっていますが、彼らは決して投資目的で収集していたのではありません。美しいものをわかる能力があったゆえ事業に成功したのでしょうし、またその能力と財力があったがゆえに手に入れざるを得なかったのでしょう。
人間の魂は、美を追求する本能を持っているに違いありません。魂に素直に生きることが、これからますます大切になってくるのだと思います。
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