見出し画像

伝達モードと生成モード

コミュニケーションには、伝達モードと生成モードの二つがあるそうです。伝達モードは、発信者が持つメッセージを受信者に「伝達」すること。わかりやすいですね。大学の大教室での講義がその典型。方向も役割も固定されています。メディアは言語などの記号が主体となります。

一方の生成モードは、それらが固定されていません。メッセージも所与ではなく、双方向のやり取りの中で「生成」されてきます。イメージしづらいかもしれませんが、とりとめもない「おしゃべり」も生成モードと言えそうです。もともと伝えたいメッセージなど双方持たない。なんとなく、思いついたことを喋り合う。時間の経過と共に思わぬ展開となり、「今度いっしょにXXしよう!」などのメッセージができあがる。メディアは、言語だけでなく表情や仕草、声の調子、場合によっては接触、周りの雰囲気など様々なアナログな情報です。(最近はコロナ禍でこうしたこともしにくくなってしまいました)

こうした偶然による生成モードの効用は、他にもあります。本をアマゾンで買うのは、たいてい買いたい本が決まっているときです。(相手は人間ではありませんが)広い意味では伝達モードです。しかし、古本屋や新刊書店に行くのは、買いたい本が決まっていて買いに行くことも勿論ありますが、多くはなんとなく書棚を眺めて面白いそうな本を探したいときです。偶然の出会い。そして、面白そうな本を見つけたときの喜びはとても大きい。新たな関心が生成されたからでしょう。

伝達モードと生成モードは、共存しないわけではありません。例えば、落語家は高座に上がってから、その日の演目を決めるといいます。前の出番で噺された演目と重ならないような配慮はするらしいですが、高座でまくらを話しながら、その日のお客さんの様子や反応、雰囲気をみて演目を決めるそうです。噺の途中でも、きっとお客さんの反応を受けて微調整もすることでしょう。その日の出来はお客さん次第、と言う落語家もいるくらいです。つまり、落語は基本伝達モードでありながら、生成モードも混じっている、というよりも使い分けているのです。

企業研修の場面に立ち会うと、この伝達モードと生成モードの使い分けの重要性をひしひしと感じます。かつては、研修といえば伝達モードが主体でした。講師が「正解」を受講者に伝達するというスタイルです。しかし、現在これでは通用しません。そもそも、講師が伝えるべき正解を持つことはまれになってきています。不確実性の高まりによって、正解は状況次第のことが多くなっているからです。たとえ、講師が考える正解を伝えても、受講者が同意できるとは限らない。

そこで、生成モードが必要になります。受講者同士と講師の間のやり取りの中から、本人にとって重要なメッセージが浮かび上がってくる。伝達されるのではなく、自分で「つくりあげる」のです。いわゆる「気づき」もこうして生成されるのでしょう。講師は、主題にそった生成がなされるための「介助者」にすぎません。

勿論、研修目的があるわけですから、伝達モードもないわけではない。大筋では決められたゴールに導く必要はありますが、生成する主体はあくまで受講者です。この関係は、目の見えないマラソンランナーと(目の見える)伴走者の関係に似ています。記録を伸ばすには、両者の信頼関係がとても重要だそうです。

目の見えないマラソンランナーのジャスミンさんは、伴走者との関係についてこう述べています。
「他者と自分の間で自分の体の動きそのもの生成していっている。この『自分でないものにあずける』信頼感がなくては、いかなるメッセージも伝わってきません。」(「手の倫理」伊藤亜紗著より)

研修会場で起きていることを、より結晶化した事象が目の見えないマラソンランナーと伴走者の間で起きているように、私には思えます。信頼感があるがゆえに、自分を「開く」(あずける)ことができる。「開く」ことができれば、相手からの信号を適切に受け取ることができ、そこから自分で意味を創造することができる。

しかしよく考えてみれば、研修という場も職場を結晶化した「実験室」のようなもの。人と人が関係性を結んで、共同でなんらかの成果をつくりあげるという意味では同じです。職場での上司と部下の関係においても、上手に二つのモードを使い分けることが大切なのでしょう。そうした使い分けも、「ケア」の表れなのかもしれません。

タイトル写真出所:「盲人マラソン伴走、一緒に勝負 中田崇志(上)」https://www.nikkei.com/article/DGXMZO19958060U7A810C1911E00/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?