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読書日記 2024/01/17

年始はこの2冊を行ったり来たりしていました。
※美術手帖2022年4月号「特集 ケアの思想とアート」

※山本泰三編著「認知資本主義」

 元旦の衝撃が冷めやらぬまま仕事始めを迎え、寝付く前に思考を違う場所に吹っ飛ばせたくて認知資本主義を一章ずつ再読していました。この場合の「違う場所」は現実逃避的な違う場所ではなく(それが必要な時もありますが)、違う角度から見渡せるような場所にふっ飛ばす、といった感じです。

 また、学びや近未来に向けた想定の話ではなく「今これから」のこととして誰もがケアに向き合わざるを得なくなるな、と思ってこちらの美術手帖のバックナンバーを引っ張り出して通勤の合間に読み進めていました。

 認知資本主義は近代から現代にかけての資本主義の変容(ものを作って売る消費する→人間の知識や人間自体や金融化により商品を媒介せず金融取引が商品になる消費する)※について書かれた本ですが、ここで言われる現代の認知資本主義には仕事としてのケアワークも含まれており、それは今まで主にケアワークが家庭内で賄われていたため(母、妻、子)、外部化して商品にする必要がなかったとも言えます。

 そして、主に母、妻、子によって支えられていた家庭内ケアワークはそのまま父を頂点とする家父長制度と同義とも言え、その形態が旧来の資本主義の発展を支えてきたのだと分かります。一億総中流社会の分厚い中間層(正規雇用のブルーカラーが主に中間層を構成していた)の人たちが地元を離れ家庭を持ち(核家族化)、自家用車、マイホーム、家電製品という耐久消費財を購入し、またそれらを作る仕事に従事し景気の牽引役となっていたのでした。

 当時を懐かしむ人や、良い時代だったと思う人もいるかもしれませんが、中間層の世帯が多かったことが「これが普通」という幻想を生み、「普通ではない」とされる人たちは追いやられて来た面があったり、のちに過労死、パワハラ、セクハラという言葉が生まれるほど、それまでもあった権力勾配を背景に生まれる暴力(性暴力含む)や抑圧が隠しきれないほど同時に増えていった時代だと思うと、そこまでいい時代だったとも思えないので、早いところ当時の幻想を捨てきれない中高年者は目を覚まして欲しいところです。

 健康は政策決定者、あるいは企業のような経済主体、そして諸々の専門家によってある程度統計的な数字として扱え、経済的な評価軸に乗りやすい。乗りやすいことによって、ますます健康な「規格化された労働力」にされた個人は生産に投入され、そのことによって力を増した「健康化させる社会」はさらに人々を健康な労働力として扱っていく、という正のフィードバックが働く。
 しかしそのことによって、逆説的に病気が増える、ということも指摘されなければいけない。例えば、かつては問題にならなかったような「マニュアル通りに分刻みで動く能力」、さらには「状況の変化に柔軟に対応し、労働力としての自分を管理する能力」のようなものがますます要求されるようになり、その規格に沿わない個人は「注意欠陥多動性障害」のような形でラベリングされていく。

山本泰三編著「認知資本主義」
春日匠著 第九章「継続的本源的蓄積」としての研究開発 221頁

 健康化される社会で病気が増える。というのはまさに。

 ただ、その「ケアするのは誰か?」。政治思想家ジョアン・C・トロントによれば、政治はこの問いを避けてきた。ケアを担う人を政治社会の周辺(無償か低賃金労働)か外部(移民労働)へとどめ置くことで、経済的に自立し、自分の意志を貫徹できることが一人前とされる「平等な社会」を仮構してきたのだ。
(略)正義=法が、どんな事態であれ誰にとっても正しい行いを教えたとしても、特定の状況と他者との間で人は、葛藤を抱える。
(略)哲学者ファビエンヌ・ブルジェールは、普遍的とされてきた正義は、むしろ自閉的で、自己利益に囚われた経済人を育ててしまったと批判する。経済人が道具のように考える国家も、市場の論理に従わない人を、依存者としてまるで病人扱いしてきた。

美術手帖2022年2月号「特集 ケアの思想とアート」
ケアの思想とは何か 越境するケア/ケアをひらく
topic1 ケアをめぐる理論の基本 岡野八代=文

 繋がるよね。

 今回の震災で被害が明らかになるにつれ、被害を矮小化する投稿や、支援の足を引っ張るような投稿がSNSにたくさん流れたのがとても異様で、この現象は何なのだろうとずっと考えているのだけど、ケアを受ける者とケアをする者を丸ごと切り離すことで、「健康化させる社会」を維持しようとしているのではないか。震災被害という非日常空間と時間を外部に置くことで、日常を送ろうとしているのではないか。過去の大震災に負けず劣らずな大被害(折しも今日は1.17でもある)なのに、なぜこんなに対応が遅く、対応は遅いのに、なぜこんなに早く集団移住の話などが出てくるのか。
 石川県や富山県に住む友と連絡を取り合っているが、まだまだ起きた現実を受け入れることもままならず目の前のことに必死である。それでも何とか善処しようと皆頑張っている。いずれ地元を離れる人も生業の継続を諦める人も出てくるだろうけど、答えを急がせすぎている気がする。まずは今日明日の安心が先だろう。
 1.17から蓄積されてきた知は何だったんだろう。ついこの間までこの国を含む世界中が命を脅かされるパンデミック下という非日常が続いていたのに、もう忘れてしまったのだろうか。
 自然災害もパンデミックも、今どんな健康体であってもいつでも誰でもケアを受ける側、ケアを提供する側になることを突きつける。 「ケア」自体と「ケア」が存在する社会という外周という両方がどうあるべきかを今すごい考えなければいけないのではないかと思うのだけど、その両方ごと外部化、というか見えなくさせられている気がしてならない。「いつでも誰でもケアを受ける側、ケアを提供する側になる」可能性があるということは、いつでも誰でも弱い立場に置かれる可能性があるということでもあるけど、この「弱い立場に置かれる可能性」に想像力を働かせたり、目を向けることを必死に拒否している人が多いように思う。なんでだろう。
 まあ、こういうことなんだろうな、という仮説も出てくるけど、長くなってしまうので、またなにか違う形で。なんせ繋がっているので。

 というわけで、上記2冊おすすめです。美術手帖の方はこの号で佐々木健さんとも知り合うきっかけになったり、障害を(自分の持つ障害も、他人の障害も)また違う角度で見渡すことが出来てその後のスナック社会科にも影響は大きかったのでした。
 多分、昨年読んで以降ちょいちょい引っ張り出す認知資本主義もそんな1冊になるのだろうなという気がします。全ては分かちがたく流れている。ではまた。

※最終更新 2023/01/17 20:26

 


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