見出し画像

スナック社会科vol.7「応答と呼応ーー緊急寄稿を終えた山本浩貴さんにお話を聞く」を開催します

 6/22(土)17:00より、幕張の本屋ライトハウスにて開催いたします。詳細は下記より⬇

 3月に開催した「スナック社会科presentsゆさカルツアーin金沢」にもご登壇いただいた山本浩貴さんですが、3/11に開催された国立西洋美術館「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」の内覧会で起きたアクションと、そのアクションに対する応答について準備をしているというお話がその時にありました。そのアクションから1ヶ月後にTOKYO ART BEATで緊急寄稿#1が出て、あの時の!と思われた方もいらっしゃったと思います。

 当日のお話の山場にもなった「レスポンシビリティ」のくだり。「それって、こういうことか!」と体言されたような文章でした。

 声明のような#1のあとは一気に「そのもの(「2023年10月7日から——あるいは、もっと以前より、そして、この瞬間も——ガザで起きていること」)」へと降りて行き、パレスチナで起きていることと、自身の研究フィールドである芸術へと接続されます。「何様か?」と問われてもおかしくないところを淡々と斬り込んで行っていて読んでいてヒヤヒヤしながらも、そんな事覚悟の上だろうなと。

 歴史的に、アーティスト・キュレーター・美術関係者らは団結して、世界の多様性を縮減させるレイシズムに抵抗してきた。世界の多様性を維持することは、アート界の豊かさを維持することに等しい。だが、レイシズムと闘う者がレイシストになってはならない。レイシズムをもってレイシズムと対峙する過ちを犯してはならないのだ。
 それゆえ、イスラエルのパレスチナ人虐殺に対する非難と、ユダヤ人に対するレイシズム的攻撃の混同は避けなくてはならない。ときに誤解されるように、あるいはしばしばイスラエル自ら誘導するように、イスラエルのガザ侵攻——および、それを先導するイデオロギーとしてのシオニズム(19世紀末からヨーロッパのユダヤ人を中心に勃興した、パレスチナにユダヤ人の民族的拠点を創設することを目指す思想・運動)——に対して否を突き付けることは、ユダヤ人への差別とは違う。

芸術は「本質的に」道徳的・倫理的な営みとしてある。2024年3月11日に国立西洋美術館で起きたこと、2023年10月7日から——あるいは、もっと以前より、そして、この瞬間も——ガザで起きていること #2 より

次回は、日本自体の足元を批判的に見つめることで、ガザ問題を「自分ごと」として思考する回路を開きたい。

芸術は「本質的に」道徳的・倫理的な営みとしてある。2024年3月11日に国立西洋美術館で起きたこと、2023年10月7日から——あるいは、もっと以前より、そして、この瞬間も——ガザで起きていること #2 より

 #3では、#2文末の予告どおり、重ステ切って在日本マジョリティが向き合うべき話へとぐっと繋げてきました。「自分ごと」として開かれる回路とは、旧植民者国家である「日本」と向き合い、歴史の忘却に抗うこと。でありました。

徐の言うように、「パレスチナ人」と「在日朝鮮人」が「近代の植民地主義による理不尽な圧迫の結果」として形成された「集団的自己意識」であるとすれば、その「理不尽な圧迫」としての「近代の植民地主義」を行使した国家としての「イスラエル」が浮上する。と同時に、すぐさま対になって現れるのは、もうひとつの旧植民者国家である「日本」にほかならない。ぼくには、あるいは「日本」という「集団的自己意識」——それがベネディクト・アンダーソンの言う「想像の共同体」という名の幻想に過ぎないとしても——を介して立ち上がる「ぼくたち」には、まだ想起しなくてならない歴史が数多く残されている。

アート界の「先住民族ブーム」の陰で進む、歴史の忘却に警鐘を鳴らす。2024年3月11日に国立西洋美術館で起きたこと、2023年10月7日から——あるいは、もっと以前より、そして、この瞬間も——ガザで起きていること #3 より

 きっちり絶望して、そこから希望を見出していくためにはひたすら学んで我が身に叩きつけるしかないなと思いました。
 そして、今回のスナック社会科はこの#3を読んだあとに、「緊急寄稿終了後に、サシでお話を聞く会は設けられないか?」と打診をさせていただき、スタートしたのでした。打診をしてご快諾いただく瞬間はイエッフゥーと天にも上るような気持ちとともに、地を這うような胃痛にも悩まされる(プレッシャー)という引き裂かれが起こるのですが、この後なされた#3の後日追記で、その引き裂かれもマックスに。
 その追記については上記記事を読んでいただくとして、先日公開されたこちらの動画では、その後日追記に至った背景、その後の対応などが語られているのでこちらも併せて是非ご覧いただくと、また誰かが(自分が)何かやらかした時の参考になると思います。

 そして迎えた最終回。#1で迂回路として語られた「ぼく」自身の話、そこに繋げて着地するのかな?とか予想していたら、予想をはるかに超える強さで「ぼく」に着地していました。引用しようと思ったけど、引用したい箇所が多すぎるので、どうぞ全文お読みください。
 この連載を読んで、自分の一人称で言葉にすることが改めて大切だと思いました。金沢でも自分で言ったことですが、この連載の起点となった3/11のアクションの後、SNSではその反応が溢れていたのですが、「応答」というよりは「反応」の域を出ないものが多く、「そんなに慌てて何か言うくらいならよっぽど黙っていればいいのに」と思ったのですが、自分の名前で自分の言葉を発することがある程度影響を与えることができるような人たちが、とてもその立場に見合わない雑な物言いをしていることや、相対化に終始して、肝心の「自分はどうか」ということが全く見えないことを悲しく、残念に思ったのでした。
 その中で、当該展覧会の参加作家である布施琳太郎さんが、内覧会のアクションについてSNSで発したあとに本を読んだり、人と対話したりした後に上げた文章があるのですが、最初の「反応」から反省と再考をし改めて「応答」したもので、それを表に出しておくということがとても大事だと思ったし、大人として信頼できると思いました。

 で、最終回の話に戻ると、やはり問われているのは自分含め、この国の大人の姿勢だと思いました。知ろうと思えば知ることが出来るものはいっぱいあるし(この連載で引用されている書籍も全部国内で入手可能な日本語で書かれたものだけで、これはもしや喧嘩売っているのかと思いました)、知れば自分と地続きの話であることもわかる。路上に出たり、運動に参加しなくても(それも重要ですが)、それぞれがそれぞれのやり方で連帯することもできる。
 あと、パンとバラの両方が生きていくためには必要で、やはり「文化」というものを手放してはいけないとも思いました。
 日本に住む大半の人にとっては身内も知人もいないパレスチナという遠くの国のことが、この国の歴史や今と交差する点、そこを足がかりに学び直しや反省から始めて、これからを踏み出していけるといいなと思います。本当にパレスチナのことを知れば知るほど、イスラエル政府の側にこそ日本との相似性を感じます。というか、右左や思想・主義に関わらず権力の欲望って同じ方向に向かうんだなという感じ。欲望はもっと豊かなことに使いたい。
 ただもうこれ以上、たくさんの人の命や流れる血の量をもって気づき、学び、そして忘れるというサイクルをやめたい。ドイツの躓き石とは何だったのか。そして、あったことを(知っているのに)無かったことにしてしまうこの国の権力者たちとそれに追従する大人たちを恥ずかしく思う。マイノリティや迫害されている人たちの生も死もマジョリティや安全圏にいる人たちのための学習材料でも、自分たちが善きことをなしているという満足のための対象ではない。

 それでは長くなってしまいましたが、今週末、幕張でお待ちしています!。会場は出演者・客席の境なくひとつのテーブルを囲むスタイルでお送りします。配信は世界中からどうぞご参加ください。当日の配布資料、グラウンドルールなどは追ってお送りいたします。

 是非、ご参加される皆さまの応答もお寄せください!


いただいたサポートはスナック社会科運営資金として大切に使わせていただきます🍺 いつか乾杯しましょう!