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読(web)書日記 2023/12/09

【ピープルのいないところにポピュリズムあり?——「健全な病理」としてのポピュリズム】
酒井隆史 2019年9月24日

http://www.ibunsha.co.jp/contents/sakaispecial01/

こちらを昨日読んでいました。

ポピュリズムは、このように理念上ではピープルに主権を与えるということ、実態上では支配や搾取・収奪にピープルがさらされているということの亀裂からあらわれてきます。少し逆説的な表現ですが、ある種の「健全な病理形態」なのです。

【ピープルのいないところにポピュリズムあり?——「健全な病理」としてのポピュリズム】酒井隆史 2019年9月24日より。

ホワイトハウスにポピュリストが君臨した現在の事態は、おそらく、デモクラシーを代表制というかたちで抑え込み、かつ資本制のもたらすヒエラルキーを中和させる、といった20世紀に主流であった社会の構成が根本的なデッドロックにつきあたったことの表現です。そして、この「病理」を、権威主義的ポピュリズムは、デモクラシーを抑え込むかたちで「解決」しようとします。それに対して、――人間が生き延びるべきであるとして――、唯一の見込みのある方向性は、ただひとつ、デモクラシーをもっと深化させる道のみである、とわたしは考えます。

上記同じ

2019年に書かれたものですが(なので、上記はトランプが君臨した時代のホワイトハウスである)、デッドロックの回避にトランプ大統領が誕生したとも言え、それが新たなデッドロックを呼び、せっかく頭をすげ替えたのに、また突き当たったデッドロック。その回避が今回のイスラエルを支持するホワイトハウスという態度を生んだのかも、と思いました。

1.敵をつくり、それを労働組合、自治体官僚、左翼、批判的メディア、マイノリティ組織などと同一視すること
2.民衆、あるいは一般大衆、マジョリティのふつうの人々を、そうした敵たちの敵対する対象として設定すること。
3.じぶんをそのマジョリティのふつうの人々と同一視すること。
4.それによって、デモクラシーの枠のなかの交渉すべき勢力から、かれらを外そうとすること。
5.選挙を完全に否定しないが、選挙をみずからへの白紙委任状と捉え、デモクラシーの機能を極端に縮小する傾向があること。代表制デモクラシーの代表機能を、可能なかぎり独裁的に解釈しようとすること。
6.三権分立や法の支配、表現の自由といった、リベラルな諸理念、諸制度を軽視し、これも縮小しようとする傾向があること。
7.排外主義や歴史修正主義、レイシズムに親和的であること。好戦的であること。
8.中間組織を嫌い、意思決定のトップダウン構造を構成しようとすること。指導者と、それに喝采する大衆という図式を好み、マスメディアを介したスペクタクルによってそれを調達しようとすること。つまり、権威主義的であること。

上記同じ

上記1〜8は、日本のポピュリストとして例にあげられた橋下徹の特徴。これは戦後右翼的なポピュリズムの特徴でもあると。今読むと、これは「現状」であるとしか思えない。となると、我々はどう進むべきか。この言葉を参考にしたい。

結論の先取り的になりますが、わたしは、ポピュリズムはデモクラシーが過小なところには必ず生まれてくると考えています。これをデモクラシーの過剰とみなしてしまうところに、リベラリズムの限界があります。

上記同じ

 デモクラシーの過剰とみなしてしまうリベラリズムの限界。まさに。ということは、ここの限界突破しかない。そもそも、1〜8の例が現状成り立ってしまっているのも「お上と民衆」みたいな関係が固定しまっているところにある。封建時代じゃあるまいに。
「お上」は「民衆」が選んで仕事を委託するものであるのが現在の議会制民主主義の建前であるのに、その建前を無視し、「お上」ヅラしている人たちの問題もあるけど、そうさせてしまった我々「民衆」にも問題はある。「お上」に任せておけば悪いようにはならない、という意識は上の世代に特に強かったと思う。委任しすぎたし、考えなさすぎた。「お上」なんてものはない。そこからだな。
 この酒井隆史氏のエッセイにうっかり出会えたのも、「万物の黎明」が読みたい!(高くて買えない)と嘆いたら、#プラ解 山本泰三氏が「これ面白かったですよ」と、下記リンクを送ってくれたことから、うろうろした結果。

価値とプレイ
グレーバー『価値論』から『万物の黎明』へ
酒井隆史 × 藤倉達郎

http://www.ibunsha.co.jp/contents/sakai_fujikura/

 こちらも鼻息荒くなるほど面白かったです。結局、「万物の黎明」読みてぇ〜に、なってしまったのですが。
 先ほどの「お上と民衆」の話にもつながるけれど、グレーバーという人は、平たく言うと「お上」(と言われているもの)をみんな大きく考えすぎ〜、と仰ってた人であり、『価値論』で書かれている「価値」というものも、人びとが与えすぎてしまっていた(いる)「価値」というものフェティシズムについて書かれています。

酒井 『価値論』の原書のサブタイトル、「私たちの夢の偽硬貨(The False Coin of Our Own Dreams)」──グレーバーはこちらをメインタイトルにしたかったようですが──は、実はグレーバーの全著作を貫くテーマを表しているようにもみえてきます。これはマルセル・モースとアンリ・ユベールの共著からとられた言葉ですが、フェティシズムといわれているもの、あるいは、王や国家といわれているものも、グレーバーにいわせれば「私たちの(夢の)偽硬貨」なんですね。

 それらはいわばプレイ(遊戯)なわけです。問題は、そのプレイが、往々にして、いつのまにかシリアスになってしまうことです。さまざまなかたちでヒエラルキーが固定化し、最初にあった流動性を失うということは、プレイがどんどんシリアスになっていくこと、つまりゲーム化することなんですね。

価値とプレイグレーバー『価値論』から『万物の黎明』へ 酒井隆史 × 藤倉達郎
より

 この「プレイ(遊戯)とゲーム」の違いは大事な指摘で、大事と言いつつ最初はちんぷんかんぷんだったのですが、宇野常寛氏の以下のnoteなどに書かれたハンナ・アーレントが書いた「グレート・ゲーム」についての解釈などと行ったり来たりしているうちに分かるようになってきた気がします。

 また、以下引用する「信じている」「信じていない」の話も重要で、これも「お上」を大きなものと我々が捉えすぎて来てしまった(価値を置きすぎてしまった)こととも同じだと思うのですよね。ゲームから降りられないうちに狂信が盲信になり、立ち止まって我に返ることが出来なくなっているのが現在ではないかと思います。

 先ほども述べたように、未開社会の人たちはビーズを崇め奉っているようにみえるが、薄々こんなものはただのビーズだ、と気づいている。理論上は神として扱いますが、実践上は神だと思っていない。近代の西洋の経済思想は、理論上はそれを神だと思っていないが、実践上は神だと完全に信じている。これこそがすべての破壊や略奪を可能にする根源なのです。自分たちはすべてを相対化していると思っているかもしれないが、実際は信仰篤き「狂信者」なんですね、こうした経済神話を解体しなければならない。

価値とプレイグレーバー『価値論』から『万物の黎明』へ 酒井隆史 × 藤倉達郎
より

 ここで、『認知資本主義』の最後の章、「認知資本主義と統治――貨幣が国家から離れるとき」(中山智香子)からも引用をしたかったのですが、今旅に出ていて手元にないので、帰ってきたら繋げます。お持ちの方は再度読んでみて下さい。

 ジェノサイドを止められない現実に「現実を見ろよ」と冷笑してきた人たちが見てきた現実ってなんだろうな、と思う毎日。しかし、このままだと冷笑していた人も私もあなたも順番に理由をこじつけて殺されてしまうので(それか従順な奴隷になるしかないので)、まだまだ諦めるわけにはいかない。とりあえず、今日はこんなとこで。

 明日は各所で入管法改悪反対アクションとパレスチナ連帯アクションがあります。行くでも、ネットで拡散するでも、自分しか見ない日記に書くだけでも、「意思を示す」ことがまず第一、かつ重要だと思っています。以下、アクションをまとめて下さってる資料を置いておきますのでご参照まで。


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