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『ブルーモーメントの指先』

登場人物

・水指 凪沙(みずさし なぎさ)
・硯 海子(すずり うみこ)

【詩:はじまり】


夏の終わり
鏡面の海に光が降り注ぎ、白く視界が弾ける
寄せては返す波打際 きみと一緒にみる水平線が好きだった

夏の終わり
汗ばむカラダに、血の通った細い腕
季節の温度がそうさせるのか、それとも、私たちの目頭がそうさせるのか
肌が触れ合うたび、息が止まって喉がカラカラになる

夏の終わり
きみの手をひいて、裸足で駆け出す海辺
着水の冷たさに、驚いて笑って、目配せする
ふたりだけの時間 心が通う気がした

夏の終わり
ちかづく距離、顔、くちびる
風も入れないくらい、私たちの間は小さく、小さく、なっていく
周りの景色も音も消えて、ただ、目の前のきみに見惚れている
きみだけを見つめている
きみの代わりを、私は知らない
だから、終わらないで、夏
いつまでも、ふたりの中にいて

この物語は、私たちのフラグメント
記憶でありながら、今もなお純粋に存在するレリーフ
色褪せないこの瞬間を切り取った、無数のピース

きみと私が生きたあの夏の日々を、一緒に見に行こう


【第一話:ウォーターバードの残光】


中央階段を登って校舎の三階まで。東棟へ廊下をまっすぐ歩いていくと、突き当たりに音楽室はある。夏休みであれば、吹奏楽部などが使用するところではあるが、あいにく吹奏楽ができる程この高校には生徒がいない。だから、この場所は授業の時間を除き、がらんとしている。

私は、音楽室に足を運ぶ。扉を開けるとそこには、飾り気のない空間にピアノがぽつんとある。まるで誰かに忘れ去られたかのように、寂しげな面影をみせるピアノにそっと手を触れる。久しぶりの感触。艶を失った鍵盤からは、落ち着いた音色がする。深呼吸をして私は、指先で弾くように音を響かせた。

「凪沙って姿勢いいよね。特にピアノ弾いてる時。育ちの良さを感じる」

「弾いてるときに話しかけないで」

「つれないなあ。もっと構ってよ」

「海子。音が途切れちゃうでしょ」

「そんなに続くことが大事?」

「大事に決まってるでしょ。どこ弾いてるか、わからなくなるし」

「そんなんじゃ、天才ピアニストになるにはまだまだだねえ……」

「別に、天才なんて思ったことはない」

「あー、ふてくされた」

「ふてくされじゃない」

「じゃないじゃない、じゃない」

「……はあ。海子には、ほんと手を焼かされる。で、なにがしたいの?」

「……あたしも、凪沙と一緒に弾いていい?」

「……そういうのは、早く言ってよ」

静寂の中、鼓動がこだまする。ここでは、時間が止まっているような気がする。
私「水指 凪沙」と、彼女「硯 海子」私たちは、特別な関係。

✴︎

物心ついた時から、私の生活にはピアノがあった。自分の奏でる音のことなどわからないまま、周りの大人に持て囃された私は、敷かれたレールの上を歩くことになった。ピアノを弾くことは、生きることの一部であり、それが自分の存在証明になることは言うまでもなく。私は言われるがまま、指を動かし続けた。この動きだけで褒められる。みんなが優しくしてくれる。それが嬉しかったのだ。

しかし、私は、ただ動かしていただけだった。そこに情感も情動もなく、音を鳴らす。その空っぽのハリボテはいつのまにか、剥がれ落ちていく。年を重ねるごとに、私の無機質な音の本質に気づいた大人は、私の元から離れて行った。私はピアノと一緒に置き去りされた。それは、過酷な宣告。ピアノ以外に取り柄ながった私に、何をしろというのだろう。もう、誰も、褒めてはくれないのに。

こうして自分のあり方を見失った私は、海辺の小さな高校に進学することにした。親戚のおばさんが近くに暮らしていたこともあったが、できるだけ自分の置かれている環境から離れたかったのが本心。逃亡するように、家を出た。そこに迷いはなかった。

朝。高校へ向かう道を歩く。風が強弱をつけて、通り抜ける。潮風の匂いは、まだ慣れない。すこし目を遠く運ばせれば、そこには海が見える。頭の中で考えていた海とは違う色だ。もっとずっと青いと思っていたのに。意外とくすんでみえるもんだなあ。いつの間にか歩く足を止めて、ぼんやり立ち尽くす。

「海は、好き?」

「えっ」

「だって、ずっと見つめているから」

自然音が渦巻く中に際立つ肉声音。はっとして振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。流線形を描く、栗毛色の毛髪。素直そうな優しい微笑みが、こちらに向けられる。

「同じ制服だね。きみも学校行くところ?」

「そうだけど」

「見ない顔だよね。新入生? だったら、あたしと同じだね」

「最近、引っ越してきたんだ。東京から」

「なるほどね。だから海が珍しいんだ」

「いや、知識としては知っていたし、雑誌でも見たことがあった」

「どう? 本物は?」

「……」

「イマイチだった?」

「ノーコメント」

「はははっ、だよね。ここの海そんな綺麗じゃないもんね、わかる」

凪屈託のない笑みを浮かべる彼女は、眩しくて。私とは違う人間のように思えた。それから海子は、

「あ、でもね。海の色は、空の色の写し鏡だから。晴れた時は、最高だよ」

と付け足した。それが、硯 海子とのはじめての出会いだった。

海子は、私と同じ学年で同い年。十六歳だ。私たちの学校にはクラスが一つしかないので、必然的にクラスメイトにもなる。が、もともと社交に重きをおいていない私にはあまり関係ない。学校はただ授業を受ける場所。それでいい。

「水指さん、一緒に帰ろう?」

放課後。私の気持ちなんか御構い無しに、海子は話しかけてくる。肩に触れる手。覗き込む視線。距離が近いのは、苦手だ。

「硯さん……、だよね。どうして?」

「どうしてって、言われても。あたしがそうしたいから」

「ひとりで帰れるからいいよ」

「味気ない回答」

「それに帰ってやらなきゃいけないこともあるし」

「やらなきゃいけないこと?」

「宿題とか、家事の手伝いとか……」

「それ、今考えたでしょ」

「そんなことない……」

「水指さん、知ってる? 今日という日は、今日しかないんだよ?」

「なにそれ」

「まんまの意味。今日は、あたしがはじめて水指さんを誘った日。逃したらも
ったいないよ。いこっ」

海子は、私の手を掴んで教室から連れ出す。海辺の人間は、こんなに強引なものなのか。環境がなせる技なのか。ともかく私は、その日、海子に振り回されることになった。

海子は街を案内してくれた。あのスーパーは安いけど閉まるのが早いとか、アイスはここで買うのがいいとか、クラスのみんなと被らないアクセサリーが売ってる穴場とか。話し続ける海子に、私は、軽い相槌と、数少ない言葉で返す。冷たい印象を与えているのではないか、という私の想い。こんな暗そうな人と一緒にいて楽しいのかな、という私の想い。きっと伝わっているはずなのに、海子は、終始笑顔のままだった。歩き回った私たち二人は、気づけば夕暮れの中にいた。

「ここはね、あたしのお気に入りの場所」

最後にと、海子は、細波の音がする岬へ私を導いた。優しい響きに包まれる。人気のないその場所に、二人だけしか存在しないのは、贅沢であり神聖だった。

「まるで、波の中にいるみたい……」

「海に挟まれているからね。波の音だけ感じられる。落ち着くでしょ?」

「……すごい」

「よかった、喜んで貰えて。……水指さん、大人っぽいのに、笑顔は子供みたい
なんだね」

思えば同世代の誰かと、こんな風に一緒に過ごすのは初めてだった。ピアノをやっていた頃は、周りは敵しかないと思っていた。関わり合いたくなかった。だって、その人たちは私の居場所を脅かすかもしれなかったから。本当に私にはピアノしかなかったんだなと、思う。

「……ピアノ、やってたんだ」

「えっ」

「独り言、きこえてるよ?」

言葉が漏れているのに気づいて、恥ずかしくなる。なんだか今日は、いつもの自分じゃないみたいだ。浮ついている。でも、その浮つきを否定しないで、会話を続けることにした。

「……ピアノ、やってた」

「今は?」

「ほとんど、弾いてない」

「どうして?」

「……そんな気分になれない」

「……やなことがあったんだね」

「……うん」

「……そっか」

「……うん」

「……そっか」

突き放すようで突き放さない、海子の曖昧な態度が、その時は心地よかった。まるでゆらゆらと揺れるゴンドラに乗っているようで、落ち着く。

「……ピアノを弾いてない自分がわからない。この先、どうしたらいいのか、わ
かんないんだ」

「……別に焦ることないんじゃない? わからないなら、そのままでも」

「それじゃあ、自分が何者なのかわからなくなっちゃう」

「そんなの、振り返った後に気づけばいいんだよ」

「振り返る?」

「よくいうでしょ? 道は進んだ後にできるって」

「そんなものかな」

「そんなもんよ。……ここで積み重ねればいいよ、思い出を。そしたら、きっと卒業する頃には変わってるはずだから」

海子は、静かに、流れるように、私に近づいてキスをした。触れ合うくちびるとくちびるは、経験したことのない柔らかさが広がり、罪を犯したような禁忌感が芽生える。はじめての味だった。

「……これも、思い出」

そうして海子は、私のことが好きだと言った。


【詩:その1(凪沙)】


夢、あるいは、夢のような話

私は、ひどくひんやりとした部屋の中にいた
扉は、固く閉ざされていた
漆のような重い液体が、ぽつぽつと流れ落ちる音を聞きながら、
その黒色を体に染み込ませて行く

白い肌にインクを垂らしたような斑点が浮かび上がる
毒だ。これは、私の心が生み出した毒なのだ
まとわりついてく幾つもの粒に、絡め取られる
真綿で首を絞めるように広がるそれを、黙って受け入れる私

このまま闇に溶けて行くのもいいんじゃないか
このまま闇に消えて行くのもいいんじゃないか

暗い部屋と同化していくのを、まるで他人事のように俯瞰しながら、
私は、私でいることを捨てようとしていた

「泣いているの?」

声がした。少女の声だ。

「涙はもう枯れたよ」

「枯れた?」

「からっぽなんだ。湧き出るものは、なにもない。だからこのまま溺れるんだ」

「黒色に?」

「そうだよ。醜いでしょう?」

「……濡羽色みたいで、綺麗だよ」

その声は、天窓から差し込む光のように、あたりを照らす
熱で、暗闇が少しだけ柔らかくうねる
光に向かって手を伸ばしてみたくなった
ほんのすこし、頭をあげて、空を仰いで
薄明光線の彼女は、優しさに満ちた、希望だった

夢、あるいは、夢のような話


【第二話:ロマンス・ランデブー・デート】


一日の約十時間程度、私は海子と過ごす日々を送っていた。睡眠を八時間とするならば、起きている間、そのほとんどを彼女といる計算になるが、不思議と苦にはならなかった。海子はおしゃべりではあったが、話尽くすと、必要以上には話しかけてこなかった。また、私がひとりでいたそうな時には、近づいてこなかったし、私も彼女のペースを乱すことはしなかった。総じて、良好な関係を築いていると言えるだろう。

ただ、あれから私たちは、一度もキスをしてはいない。

「凪沙、今日は外でご飯食べよ?」

「いいよ。海子、お弁当作ってきた?」

「もちろん。早起きしたんだよ? 褒めて」

「昨日忘れてきたくせに。お弁当交換しようって言い出したのは、海子でしょ?」

「なんのことだっけ?」

「とぼけない」

「細かいことはいいの。今日のあたしの、自信作。絶対美味しいから」

海子は、遊びを作るのが好きだった。日々思い付いては、私を巻き込んで実践する。このお弁当交換もそのうちの一つだ。どうやら、私と何かで張り合うのが好きらしい。日々の中に楽しみを見出そうとする海子に、私は関心していた。彼女という人間を知る程、興味は肥大化していく。

……だからだろうか。あのキスと告白が一体何だったのか。気になってしまうのは。

「米粒、ついてるよ」

「え?」

「ぼーっとしちゃって。考え事?」

すうっと海子の顔が近づく。とっさに視線を外してしまう。散々一緒にいて、もう距離なんて慣れたはずなのに。動揺してる、私。

「はい、とれたよ」

「……ありがとう」

「あたし、気に障ることした?」

「そんなことないよ」

「なら、どうしてこっち、向いてくれないの?」

聞きたい。海子のまごころは、どこにあるのか。明るさの中にある影。それに触れてしまったら、後戻りはできない気がした。内側から鳴る心の振動で、喉が詰まる。息をしなくちゃ。そう思った矢先、彼女は呟くように声をこぼした。

「……キスのこと、考えてた?」

ぶわっと毛並みが逆立つように、体内が歎声をあげる。瞳孔が開いて、そのまま、海子の姿を捉えた。海子の表情は、今まで見たことのないようなせつなさを物語
っている。

「……ここじゃ嫌だから、放課後、音楽室にきて」

私は、言われるがまま、「うん」と頷いた。

✴︎

音楽室。飾り気のない空間にピアノがぽつんとあるその場所に、足を踏み入れる。そこには、窓に腰をかけた海子が待っていた。眼差しは、地球の重力に引き寄せられるように落ちている。体は向かい合ってはいたが、音は鳴らない。沈黙の末、先に口を開いたのは、海子の方だった。

「……覚えてる? あたしたちが、初めてあったときのこと」

「海子が声をかけてくれたんだよね、私に」

「違うよ。もっと前」

「前?」

「……いじわるした、ごめん。凪沙が覚えてるはずないのに」

「……私と海子が、東京であってるってこと?」

海子は、私の顔をじっとみつめる。瞳から伝わる嘘のない意思が貫く。

「あたしは、知ってた。水指凪沙。なんどもコンクールで確認した名前だったから……」

「海子もピアノを?」

「弾いてた。きみと同じ舞台に立っていた。もっとも、そんなに回数は多くなかったけど」

「そうだったんだ……」

「昔はね、将来、ピアニストになるんだって思ってた。あたしには自信があったし、何より音楽が好きだったの。毎日レッスンでピアノと向き合って。この子の音は、あたしが一番うまく引き出せるんだって思ってた。凪沙をはじめて舞台で見た時、変な子だなって思った。なににも興味がなさそうな死んだ目。周りの人は素晴らしいって噂するけど、そんなの信じられない。あの子には花がない。だから、演奏も大したことない」

「ぽーんと、鍵盤の音が響いた時の衝撃、いまだに忘れらない。なだらかな水面を妖精が歩くように、優しく跳ねる。指先の動きは、川の流れのようで、大自然の中にいるような音だった。聴いている間、何も考えられなくて、気づいたら、あたし、拍手してた。なにものにも代えがたいものだった。あたしは、この人がいるなら、夢を捨てていい。……そう思えた」

「だから、あの海で、凪沙にあった時、幻をみているかと思った。なんでこの町に、いるの? ここには、きみの音を鳴らす環境はないのにってね」

「……近づいたのは、確信的だったんだ」

「傷ついているのは、一目でわかった。なのに、あたし、ずるいの。自分の夢を託した人が挫折しているのをみて、ちょっと優越感があったの。だから、かき回したかった。振り回したかった。揺るがしたかった」

「……どうして、そんなことを話すの?」

「さあ、どうしてかな」

「……好きって言うのは、嘘だったの」

「嘘じゃないよ。あたしは、凪沙のことが好きだよ。好きじゃなかったら、こんなに一緒にいない」

「海子は、私になにがしてほしいの? またピアノを弾いて欲しいの? 私、わかんなくなる。海子のこと、ピアノのこと。全部から逃げてきたはずのなのに、ここでまた考えなくちゃいけないなんて……私はさ、平穏に生きたい。無感動でいいから、人形でいいから、ただ凪のように、生きてたいのに」

「……そんなの、無理だよ」

海子は、力強く私の手を引くと、また、キスをした。これで2回目。今度のキスは熱のこもった繋がりだった。たぶん、私の体も泣いていたからだと思う。くちびるを離す。涙が、頬を濡らす。

「どうして、キス、するの?」

「わからない。したくなったから」

「……海子は勝手だよ。さっきのこともそう。自分のいいたいことばっかり喋って」

「凪沙だってひどいよ。こんなところにきちゃうなんてさ」

「私のこと、受け止めてくれると思ったのに」

「それは、あたしも同じだよ。あたしだって、受け止めてもらいたい」

私も海子も、違う人間。お互いのこと、理解なんてできない。わかりあえない。自分の思いをぶつけるだけぶつけるしか、相手と話し合えないのだ。私たちは、日が暮れるまで感情が高ぶるまま、お互いの話をする。キスをして、話して、またキスをして。こんなにむしゃくしゃするのに、どうしようもなく惹かれあってしまう。

胸の内に熱がこもって、埋め尽くされる。目の前のきみを求めている。必要だと感じている。出会えてよかったと思っている。好きって感情は、うまく説明できない。けど、これが、「好き」以外の何物でもないことだけは、わかってる。

私は
あたしは
きみが、好き

【詩:その2(海子)】


夢、あるいは、夢のような話

月に照らされた夜道を、あたしは歩いている
ステップを刻んで踊るように、歩いている
気持ちが高鳴るのは、夜風のせいじゃない
お気に入りのドレスを着ているからじゃない

舞踏会へ向かう階段。いつだってドキドキする
階段を上がるように、心臓が飛び出していきそう
きみは、あたしの憧れだった。きみの姿を遠くでみていた
きみに拍手を送る、無数の星の一つでしかなかった、かつてのあたし

そして、きみの手をとる今のあたし

心が、歓喜の悲鳴を上げている
でも見せて上げない。見せたくない。きみに、相応しくないから
きみの傍にいるあたしは、美しくありたい。綺麗でありたい
見栄ぐらいはらせて。きっとそれも、あたしの特権だから

あたしは、きみが好き
世界規模でみれば、何の変哲もないことだけど、
「好き」に勝てるものをあたしは知らない

ずっと見つめていたい、ずっととなりにいたい、ずっと手を繋いでいたい

特別なことじゃない、あたしの特別

物語の数だけ、きみのことが好きになった
物語の数だけ、きみのことが好きになった
物語の数だけ、きみのことが好きになった

ただ、それだけ

夢、あるいは、夢のような話


【第三話:少女たちのララバイ】


弾く指を止め、ピアノの蓋を閉じる。目についた埃をさっと払って、綺麗にしていく。海子との思い出が詰まった音楽室。ここを訪れるのは、どれぐらいぶりだろうか。彼女と過ごした日々。夏の記憶。

「だいぶ変われたね」

「そう?」

「表情が特に。昔は、いまにも消えそうな感じだったのに」

「もしそうだとしたら、たぶん、海子が変えてくれたんだと思う」

「あたしが?」

「うん」

海子と過ごした時間は、一瞬だったように思える。それでも、私からこびりついて離れないのは、多分、彼女がくれたものが果てしなかったからだ。ずっとこのままが続く。手を伸ばせば、いつでも、彼女に触れられる。永遠。

 ……それが、まがい物のだと、わかっていても。信じたい私がいる。海子は、にこっと笑っている。たしかに、笑っている。さっきは、海を歩いてきた。私たちが出会った海。そして、学校。教室。廊下。音楽室。いくつもの私たちの思い出に、足をつけてきた。積み重ねてきたものを確認してきたのだ。

「……ねえ、海子。私、本当に変われたかな?」

私は、今ここにひとりでいる。海子は、私を残して遠い場所へ行ってしまった。 突然のことだった。海子は、病気だった。療養のため、この町にきたことをあとで知った。「バイバイ」と手を振って別れた帰り道。もう会えなくなるとは思ってなかった。明日も、きみと一緒にいられると思っていた。当たり前に、安心していた。

目の前のきみは、思い出の人になってしまった。今見ているきみは、私の中にいるきみ。もうこの世界には、存在しないなずの、きみ。私が見たいだけの、まやかし。

「海子って、実は隠し事が多いよね。話してくれればよかったのに。私たち、大事なことはちゃんと話し合えなかったね」

「うん」

「不器用だからさ、どう接すればいいか、わからなかった」

「うん」

「ただ、なんなく一緒にいる居心地の良さに甘えてた」

「うん」

「好きって言えることに甘えてた」

「うん」

「キスに甘えてた」

「うん」

「……こんな私なのに海子は、今でも、優しく聞いてくれるんだね」

実在のない海子が、私を抱き寄せてくれる気がした。私も、腕を回す。実在しないもの抱くという行為は、祈りみたいなものだけど、祈りと違うのは、確かに肌が触れ合ったという記憶があること。だからこれは、祈りなんて曖昧なものじゃない。きみを信じる、私の特別な感情だ。

「凪沙は、これからも変わっていく。時間が過ぎれば、忘れてまたあたらしいものと巡り会う。どんなに凪沙が変わっても、あたしは、いつだってそばにいる。ここにいる。きみの幸せを願ってる」

「……わかってるよ、海子。私、幸せになるよ」

「そのいきだ」

「……でもね、わがまま、言うね。私、海子のことは忘れないよ、忘れない。だって、好きだって気持ちは止められないから。思い続けるくらいは、許してよ」

「……しょうがないなあ。疲れた時だけ、だよ」

「うん。私、またピアノ始めたよ。自分で選んだ。海子が聞きたかった音、いっぱいこの世界に残していくね。水平線を超えて、空まで届くくらいに」

「楽しみにしてるよ」

ゆっくりと目をつむっていく。身体をくっつくくらいよせて、首を傾けて。はわせるようにキスをした。すり抜けてしまう、キス。でも、私は覚えてる。きみのくちびるから感じたいくつもの出来事を。

さよならは、言わない。きみといた時間は、私の人生の中で息づいていく。


【詩:おわり】


触れた手の温度を感じて
肌の柔らかさを感じて
このままどこかへ行ってしまいそうな
心の行方を探してる

夏が終わる
誰も入れない
誰も届かない
誰も触れられない
誰も壊せない
その光景を見つめていたい

夏が終わる
求めている奇跡の瞬間
信じている聖なるもの
たとえそれが、もう二度とないものであっても
巡りあう、ただひとつのカタチ

夏が終わる
すべてのものへ
こみあげる美しさを花にして
きみたちの幸せを、永遠に


※2018年8月初出

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