金融リテラシーってあった方がいいんですよね? (74/365)
よく聞く言葉、「金融リテラシー」。
まずは、銀行による「金融リテラシー」の定義を見てみましょう。
「お金の知識と判断力」、なるほどだいぶわかりやすくなりましたね。
資本主義の世界、経済不安の世界、を生き抜くために「お金の知識と判断力」は確かにあった方がよいですよね。
本当はお金のことなんか気にしなくても自由に生きていけるなら一番なのでしょうが、お金のことで苦しまないためにも、お金の知識は必要。なんか逆説的ですが。
話を進める前に、ここで聖書からの引用を。マタイ伝25章にタラントのたとえがあります。例えば以下のリンクをご参考に。(私はキリスト教徒ではないので解釈に間違いがあるかもしれません。あらかじめご了承ください。)
この逸話ではタラントはお金ですが、才能や、使命と解釈してもよいのだろうと思います。
※ちなみに、才能=タレントの語源はここにあると言われています。
主人に預けられたタラントを増やす努力をした者は祝福され、恐れから地中に埋めていた者は、すべてを取り上げられ追放されたというお話です。
実はアメリカを中心とした近代資本主義発展の底流には、キリスト教的価値観があるという、マックス・ウェーバーの有名な著書があります。
さて、話を元に戻します。「金融リテラシー」という言葉には、お金を大事に使う、とか分け与える、という意味合いはあまり感じられません。
むしろ、金融商品の知識、節税の知識、資金運用の知識、を駆使して少しでも資産を増やそうという意味合いを強く感じます。
それがおかしいと言っている訳ではありません。ただ、最近の金融商品は暗号通貨を含めて極めて複雑化しており、それらの知識を得ることが万人にとって必要と言われると抵抗があります。
庶民に向けては、例えばつみたて投信(NISA)のような金融商品も用意されているという人もいますが、なんか搾取されている側面もあるように感じてしまいます。
結局、一部の権力者、一部の金融ギークが立場や知識を駆使して資産をより増やしているのが現状ではないでしょうか。先ほど紹介した聖書の一節に、
「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」
とあります。「(お金)を持っている人」と読み解くならば、これは現代の資本主義をよく表していると思います。しかし、キリストの真意はそこにはないように思います。
「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」
キリスト教では、才能も財産も神からの預かりものという考え方があります。この預かりものを放置せず、より豊かな世界のために、勤勉で、正直・誠実であれ、という教えなのではないでしょうか?
そもそも金儲けに固執することは、卑しいことだと考えられた時代もありました。そこに正当性を持ち込んだのが、キリスト教の思想であり、であればなおさら、その使命、目的に焦点をあてるべきと考えます。
高度経済成長期は、お金は銀行に預けて、汗水たらして一生懸命働く、というシンプルな価値観がありました。
金融商品が複雑化して、情報格差が生まれた今、その知識を駆使して資産を増やすことは本質的なのでしょうか?情報格差を利用して、一獲千金を狙うことが奨励されるべきなのでしょうか?
私は、潤滑剤としての金融システムは必要なものだと理解していますが、そこに傾倒するあまり、実体社会の本質的価値の追求がおろそかになっていないか?と疑問を感じざるを得ません。
全人口の1%が富の大半を保有する世界。それでいて飢餓や争いがなくならない世界。それが正しいとは到底思えないのです。
大きな話なので結論は出ませんが、こういう違和感は無視せず生きていきたいと思います。そして、大きな変化が近づいていると感じます。
今日も最後までお読みいただきありがとうございました。