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生きるか数えるか⑥

お粥をつくって食べる、という風景は、
物理的領域で行われる例、なのだけど、
これをエネルゲイア領域で行われる例、を対としてあげておきたい。

それが「discussion」という風景。

Photo by Brooke Cagle on Unsplash
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ディスカッションはdis+cussion 。
dis は、2つにわかれていくイメージ。

つまり、cussion という状態を通過して2つに分かれたり、
あるいは、別々だったものがcussionという状態に放り込まれ、
その後変容していく、そういう瞬間を指し示すわけだ。

そしてこのcussion が、まさに「お粥」という元型イメージ。
他には切り分けたり、混ぜ合わせたり、「握手(shake)」という意味も、含まれている。

Photo by Sincerely Media on Unsplash
https://unsplash.com/@sincerelymedia

日本人の言葉への感覚から、握手と、混ぜ合わせるシェイクが同じ言葉である、というのは一瞬「?」となるのだけれども、西洋人は、個人の輪郭がアジア人よりも物凄くはっきりしているわけで、だから、ハグしたり、握手したりすることで、お互いの境界線を緩める、ということを積極的にやるんだろう、と推測がつく。
日本人は普段からもやっと、自分の輪郭を薄い状態にして、群れの中に深く考えず漂ってる感じがあるので、ここは言葉が使われている文化の違いを強く感じる場面だな、と思う。

discussionに戻ると、討論というものは、他者を打ち負かしてやったー!とやるためのものではなく、お互いの持っている世界観を一つの鍋に放り込んだことで、美味しいスープができる、という風景そのものなんだな、と思う。

そう考えると、この、境界線をなくしていっしょくたにする風景は、とても良いものに感じられる。

だが、この風景が裏目にでると、自分と他人との境界が曖昧である故に、集団におけるしわ寄せ、とばっちりを引き受ける生贄的な状態、と紙一重なのだ。

このことは、「ムスビ」の神様について理解することとも通じる。
ほんとうの「ムスビ」は、外からの力で縛り付け拘束する絆ではない。
結婚式のご祝儀袋に水引を用いるが、あれももともとは真結びといって、きっちり結ばるけれど、ほどくときにはするりとほどけて、元通り別々に使える二本の紐に戻る、そういう結び方が用いられていたそうだ。
だが、現代では、そうやってほどけてしまうものは縁起が悪い、二度と解けないのが良いとされてしまっている。
そうなってしまった結び目は、ほとんどコブ同然であり、「胡」と何も変わらなくなってしまう。

つまり、もうもとに戻れない形で、数え方が変わってしまうような変化というものは、本来エネルゲイア領域におけるdiscussion、のように、個々の内的世界で行われるのが良いのかもしれない。

それを、キネシス領域でやることが、この世の力が増大する技術であるとともに、生きることがホラー映画のようになる、紙一重なのだ。


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