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領域の取り違えを解き放つ(1)


殺してはいけないのはなぜ?
春を売買してはいけないのはなぜ?
善とは、悪とは何か?
魔法とは何か?
人が癒えるとはどういうこと?


なんて、ほとんど中学生の妄想のようなテーマを一生追い続けるのをやめられない私は、それをやめないことによって見えてきた風景がある。

それを少しずつシェアできたらいいなと思ってこれを書いているのだけれど、これらすべてのテーマの根底にあるもの、その話を今回は書いていきたい。

そう、それは領域の取り違え、だ。

わたしは、地上において、確からしい世界と見えない世界が、まるで粒と光のようにぴったり寄り添いセットになっている、という発想をベースにしている。みえない領域、気の領域、心や魂の領域、シンボルイメージの領域のことを「エネルゲイア」、これに対し、可視化された世界、五感でとらえられる世界、世俗的で筋反射的、力の世界で説明がつく領域を「キネシス」と命名して考察をしてきている。

このキネシスとエネルゲイア考察については、過去一度本にまとめたのだけど、正確に書こうとした結果、難解な書物からの引用が多くなって、とても読みにくいものになってしまったと今でも思うため、ちょっと公開を停止している。過去買って読んでくださった方はありがとうございました。これをまた、もう少しわかりやすい言葉で伝えられたら、という試みをまたはじめている。

で、この領域の混線、取り違えについて、だ。

言葉さえ正確に用いることができれば、人とコミュニケーションが取れると思ったら大間違いである。言葉は、その人の脳裏に、その人にとってあたりまえとなっているイメージを喚起させる役割があるだけであって、同じ言葉であっても、どんな風景が脳内にゆらめいているか、はとても気を付けないと、まったく話が噛み合っていない、ということが起こる。

最近とてもおもしろかった動画をちょっとひっぱってみる。

1ページから100ページまである本をもし読んでいたとして、今65ページあたりを読んでいる時に「そうそう、ちょっと前のページに戻ってよ、そこにおもしろい挿絵があったでしょう」といったときの「前」は、それは1ページに近い方へ戻る、という意味=後ろを意味することになるけれども、道を歩いていて「危ない!前を見て!」というときの前は、物理的な意味として、自分の進行方向を指し、決して背中側、進行方向と反対ではない、という言葉のトリッキーさをはじめ、時空間の認識に関連するおもしろい解説で唸ってしまったのだけれど、これをみていると余計に、日本人の時空認識はもとから自然に、「みえない領域は逆になる」という感覚が体に染みついているのでは疑惑、を感じてあらためて不思議な感覚に気づく(英語では時間軸も空間認識も基本的に指し示す方向に矛盾がない!しかし語源をいろいろ追っていると、その矛盾の究極に行き着くこともある。このことはおいおい触れたい)

この、みえない領域=エネルゲイア領域が、キネシス領域と逆の原理で成り立っている、という例をいくつかあげてみよう。

たとえば、チャキチャキと飲食店で働いている配膳係の人を想像してみてほしい。彼らは、ややこしい注文を正しく理解して厨房に伝え、その合間に呼び止められたりしてお水をつぎたしてあげたり、お会計を済ませ、領収書をきったりしつつ、客が帰った後のテーブルの皿やグラスを全部片づけ、テーブルを綺麗に拭き上げ、そうこうしているうちに料理があがってきた、と厨房から声をかけられるから取りに行き、と思ったら新しい客が来店したからテーブルに案内し、、なんてことを超忙しく、マルチタスクとしてやっているけれども、この間、彼らは一切、哲学的なことなんて考えやしない。そんなことに一瞬でも気が取られたなら、「あれ?ビール中だったっけ、大だったっけ?」と忘れてしまったりするわけだ(まあ、今はそれがIT化してるやんと突っ込まれそうだが置いておいて)。

この感覚は、事務仕事をしていても同じで、階層がおそろしいくらい深くぐっちゃぐちゃになっているパソコンの中から必要なデータを探し当て、それらを複数参照しながら、メールに返信し、集計をして取りまとめたりしているときに、唐突に電話がかかってきて受け答えをする、なんてやっているわけだ。この「唐突に電話」はほんとうに集中力をへし折るので嫌いな人は多いのではないか。とくに、集中して物事に取り組むのが好きな人は、電話がかかってこない職場を好む人も多いかもしれない。

今2つ例をあげた、配膳係の人も事務仕事の人も、社会でちゃきちゃきと効率よく働いているひとたちである。だが、ある種の忙しさにかまけて、人生においてある領域が、完全にお留守になっている、ともいえるわけだ。

この逆で、いわゆる「瞑想」や「散歩」のような、生産性ゼロの行為をする場合はどうか?このひとたちは、社会で求められる事務処理も、どんどんたまっていく物理的な作業も、一切やらない状態にいる。だが、だからこそ、活性化している領域がある。

禅の世界ベースの日本の文化に、和室があるけれど、和室にはほとんど家具がない。使わないものは都度片づけてしまうし、ひとつのものをいろんな使い方にして、共有する。空間の自由度がとても高い。
これに対し、西洋では、居間に応接室に寝室に、と全部別の部屋が必要になり、そこに据え付けられて動かさない家具もたくさん必要になるわけだ。
西洋的な暮らし方は、物理的に充実し、そのことでより便利になり自由を手に入れたようでいて実際は、掃除やメンテナンスや片付けがとても面倒で、それらに縛られ囚われるともいえる。

Photo by Braedon McLeod on Unsplash

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