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ホラーの持つ意味

久しぶりの更新となってしまいました。
11月11日の文学フリマ東京に出店し、新作フィクション(?)を出したのでこちらでもお知らせしておきます。
現在minneでそーっと販売してますので、ホラー描写が大丈夫なほっこり好きな人(かなり限定的な読者層だと思う..)は良かったらぜひ。

同じタイトルで、note内でも論考を雑に提示してますが、ベースはまあそうなのだけど、もっとファンタジックな内容に仕上げてます。まあ、グロさは通奏低音でございます。。。

で、ホラーについて。

私、若い頃から表現形態が暴力的ですさまじい作品が基本的に好きで、それは私が内部にくすぶらせていた、社会から受けた負の連鎖を意識化する、という過程においてとても大事な体験だったと思っている。

インターネットが一般に普及して起こったことは、不快感情消去マシーンをみんながお手軽に手にしてしまった、ということだという鋭い指摘をされていたのは、「物語が生きる力を育てる」を書かれた脇明子さんだ。

ちょこっと引用させてもらう。

人間が怒り、憎しみ、妬み、悲しみ、欲求不満、さびしさ、落胆、恨みなどといった不快な感情に振り回され、破壊的な行動に走ったり、苦しみを増幅させたりしないですむようになるためには、幼いうちからある程度そういう感情を体験し、まわりの年長者を手本にしたり、うまく手助けしてもらったりしながら、少しずつ感情処理の仕方を学んでいくしかない、ということです。
(略)
それが今の子どもたちには、とてもむずかしいことになっています。それは、ひとつの共同体のなかにいろんな年齢の子どもがいて、見守ってくれる大人もいる、といった環境が失われてしまったからでもありますが、それだけではありません。何よりの問題は、いまの子どもたちのほとんどが、不快感情の消去マシーンを持っている、ということです。

ゴールマンの本を読んで、「不快感情の体験の必要性」について考え始めたとき、私はゼミの学生たちに、「不快感情に襲われたとき、あなたたちはどうするのか」とたずねてみました。すると学生たちは異口同音に「テレビをつける」「好きなミュージシャンの音楽を聴く」と答えてくれました。たしかに、テレビ、音楽、ゲーム、マンガ、ネットなどは、とても便利な不快感情消去マシーンで、いやなことの多い世の中で暮らしていて、これらのご厄介になっていない人はめったにいないだろうと思います。じっさい、つまらないことをくよくよと気にして、どんどん深い穴に落ち込んでしまうくらいなら、消去マシーンの助けを借りてさっさと抜け出したほうが得策です。

しかし、子どものうちからそんなやり方に頼ってもいいものでしょうか。私たちが深い感情に襲われるとき、そこには必ず原因があります。それは、忘れてしまえばすむことの場合もあれば、逃げたくてもがまんして真剣に対処しないと、ますます大きな問題になってくることもあります。

物語が生きる力を育てる 脇明子 岩波書店 P81-82より一部抜粋

世の中が、技術の発達によって、「不快を味わわなくてすむようになったゆえの不快さ」に覆われた令和に、たちもどらなきゃいけないのはここではないかと思う。だから、私は今回フィクションを拙いながらも書いてみたわけだ(もうちょっと書き直すかもしれない。。)

イカを研究して人工知能に役立てた松本先生だったかな、人間が、自分自身で情動をコントロールする、ということはできないわけではないが、その脳を育てることはかなり難しいってことをおっしゃってたのを思い出す。偏桃体の制御の話だったかな、、だから、外部的な介入によって、人間を変えてしまおう、みたいな陰謀論的な風景が生じてしまうのも、致し方ないのではないか、と半分は思うのだ。

だが、技術のおそろしいことは、どちらにも、使えるという事。
便利は愛じゃない、が私のモットーだが、技術によって、葛藤が消えるということのやばさについて、しみじみ思う。

私の思春期はほんとうに暗黒時代で、なぜにあそこまで私の心象風景が暗黒だったのかを解明するために、その後の20年が費やされてきたように思う。
そして当時私は、吉本ばななの初期の作品の熱心な読者だった。私が何か作品を好きになる時は、その人が何に影響を受けていたのか、に遡って枝葉を広げていくことが多いのだが、スティーブン・キングを知ったのも、確か彼女が強く影響を受けたとおっしゃっていたからだ。ダリオ・アルジェントとかも。(ホドロフスキーに関しては別ルートで好きになったけれど)

彼女がシャイニングは良い作品と言っていたのを覚えているが、今思えば、それはキューブリックの方ではなく、キングの原作と、彼が後年ドラマとして映像化したもののことを言っていたんだなと今頃気づく。

若い頃の親友は、キューブリックに入れ込んでいたため、私もつきあわされてひととおり見たけれども、あの世界観はほんとうに、生贄神にとりつかれている世界で、その先がない世界なのだ。だから、キングはその描かれ方をされたことに、怒ったのは当然だろう。キングは、生贄神に取り憑かれた世界の次が見えているし、次の世界にいくために作品を生んだ人だからだ。

キングの作品をみていると、普通の人の背後にちらつく生贄神、取り憑かれてどのように混線して狂っていくのか、その狂った状態と、そうでない状態を冷静に見極める力がある人とない人がいるということなどがはっきりと描かれていて、ある種辛辣だ。

わたしはもう、作品に救われることで生きながらえる、みたいなフェーズの外にいるようになった。けれど、今度は、普通の人を無邪気に受け入れることができなくなったように思う。
それはある種の自立かもしれないが、昔は感じなかった種類の孤独がある。自分の世界を確立させていくことは、群れの安寧さと反比例する。

この種の孤独を引き受けない人は幼稚なのだ。だが、令和はその幼稚さを最大に擁護するようにととのっている。

そのお膳立てされた世界に満足できない人、こっそり話そうよ、と思ってます。

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