力の美、生命の美②
①では、感情表現が滞っている様子が、ブスの語源ではないか、というような考察をしたのだけれど、人の感情、気持ち、心、というものに関して、もう少し深く書いておきたい。
表情やリアクションが、大げさであれば良い、というのもまたある種罠なのだ。
とくに男性は、つくり笑顔と、ほんとうの笑顔を見分けることが苦手だという研究結果があるそうだが、この、かたちとしてあらわれた感情表現、というものにとらわれすぎることも、ちょっと違うよなあ、と私は思ってしまう。女子はにこにこしておけばいい、的なアレだ(最近フェミがうるさいので、そういうのはあまり言われなくなってきたんだっけ?)。
確かに、商業的な場面において、店員さんが笑顔だと、反射的に安心する、というのは確かにそうだ。そうなのだが、笑顔になれるはずもない状況なのに、無理やり笑顔をつくる、ということが業務として常態化していたとしたら、その笑顔に癒されている場合じゃないのでは、と私は思ってしまう。
それが現代にはびこっている感情労働だ。
人は、快い感情、というものに弱すぎる。多くの洗脳や扇動は、この感情をとてもうまく利用して行われている。
快い感情、を乱されることがあっても、守らなければならない何かを知っている人は強い。そういう人は、思っていない時に無理に微笑まない。だからといって、不機嫌さをそこらにまき散らすわけでもない。
ただ、目の輝きが深いんだ。
生命の美、というのは、滞りのない感情表現、というのは確かにそうなのだけど、月が管轄する感情、高揚した気持ち、というものには、どこか、その人の本質から離れ、ある種取り憑かれたようなあぶなっかしさがついてまわる。そのことにどこか冷静である人の、鋭い目の光。
そういうところを見逃さないでいたい派だ。
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