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見えない果実(1)

「ねえ、今日の店ではどれくらい焼くつもり?お店の人には、自己責任で(なら自由)って言われてるんだけど」。

連休のまんなかの、横浜中華街へ向かう電車の中。久しぶりに再会したであろう、家族っぽい人たちがどうやらユッケのようなものを食べにでかけるらしい場面に遭遇した。平日は一所懸命、それぞれに外で働いている中、久しぶりに再会し、美味しいものを共にわかちあう大切なプライベートといったところだろう。検索した店のメニューの画像を眺めながら、駅に着くまでずっと、ああでもないこうでもない、と嬉しそうに盛り上がっていた。

ユッケが美味しいと思える心理状態。忘れられないのが、昔働いていたコールセンターのチームリーダーだった、アイドルのように可愛らしく仕事ができる彼女が、ユッケが大好物だったということ。クレーム対応もとても上手く、笑顔が素敵な彼女の好物が、ユッケ。

ホックシールドの、管理される心は、今でも絶版なのだっけ。私のもやもやしていた感覚を「感情労働」というネーミングでずばりすっきりさせてくれた本で、今でも時々読み返す。
日本人は、感情労働や、ありとあらゆるものの売買春に関して、かなり寛容な民族だと思う。ええやんへるもんやなし、って言うよねよく。

ふと思い出した、ユッケが大好きな仕事がよくできる彼女は、そしてそこで同じ仕事をしていた私も含め、わたしたちは感情労働者だった。

製品をたくさん売ったのはいいが、何らかの不具合があったとき、そのことへ対処する時、入り口はコールセンターである(これはもう20年くらい前のコールセンターの話で、昨今は電話すら受け付けず、定型文しか返してこない問い合わせフォーム対応がメインになっている令和だが、、)。

感情労働度が強い場合、クレームの解決プロセスが歪んでいる。
そもそも、なにかしら問題が発生しているから苦情が来ているわけで、本来はその問題を解決するための橋渡しでしかない部署のはずなのだ。
ところが、昨今は意図的に、「あやまるだけの係」として重宝されがちなのがこの部署。ここに届けられた問題が、プロセス全体に還元されないよう意図的にストップされ、ここだけで終わるようにされることがほとんどだ。
そのために、にこやかに、客の機嫌をなおしてもらうことだけがメインになるような態度をうまく取れるように研修がなされる。
お気持ちを害してもうしわけありません」と謝罪はするものの、
商品の欠陥については頑として認めないトークスキルが求められる。

ふと読みはじめた、上村勝彦の「バガヴァッド・ギーターの世界」に、タパスという定義が書かれている。タパスとは苦行を指し、その語源は「熱」であるという。

ヒンドゥー教は、デジタルな生贄社会そのものを助長する思想とも言える。仏教(仏教にもいろいろあるので乱暴にひとまとめにするのもアレなんだけど、、)とごっちゃになりやすいが、違う要素がたくさんある。

タパ(ス)。昔働いていたインド料理屋で、まつげがふっさふさで可愛いネパール人の調理人さんがこの名前だった。あまりにもまつげがふさふさすぎて、マッチ棒がほんとうに数本乗ってみんなでびっくりしたことがあった。

タパの音は、保存容器として、また、ねずみ講として有名なタッパーウェアのタッパーと根底的に通じるものがあるだろう。たくさん入る器。ねずみ講方式はともかく、タッパーは、保存容器としてはかなり高性能なのは間違いない。

苦行とは、まさにこの、果実がたっぷり入る「器」になろうとしたり、「器」を大きくしようとすること全てなのかもしれない。それは、別のいい方をすれば、社会で通用する力を手に入れるために努力する、企業人の鏡みたいな人のこと。

ホックシールドのまた別の本、タイムバインドを読んだ。福利厚生や短時間勤務などの制度が非常に充実したアメリコ社への取材を基に、せっかく制度があるのにあまり利用する人が増えないのはなぜか、という問題点を解き明かす、結構スリリングな本である。

私たちは会社で長時間働くこと、働く人のことを「社畜」とよび揶揄する一方、自ら喜んでその立場に身を投じている面がある。
あまり自覚したくない人も多いのかもしれないが、企業社会はある種甘やかしてくれる。果実を手に入れるという点からすれば、これほどまでに手厚い空間は他にない。しかし、入れ込みすぎると、失うものがたくさんある。







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