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デ・キリコの瞑想

念願の、東京都美術館で開催中の、デ・キリコ展に行ってきました。
若い頃は、明るいのに虚無感にあふれた世界観が好きで、図書室においてある大きな画集を広げて見入っていた記憶があります。

当時は、その明るい虚しさが、ぬるま湯のように優しくて、ある種心の支えのように思っていたけれど、今は、そのようには思えなくなっている。

その、昔と違う感想というか、ものすごく彼らしいな、と思った絵がこちら。絵はがき買ってきたので乗せます。

右側の絵はがき:ジョルジョ・デ・キリコ《瞑想する人》1971年

これが、瞑想というタイトルだとは。。

わたしにとっての瞑想は、こんな感じなので、雲泥の差。

Photo by Sebin Thomas on Unsplash

こういう感じに近い。もっと、かたちのない、ふわーっとしているが集中して広がりがある意識状態なのだけど、画像で表現するのは難しいな。

最近、長距離サイクリングが日常に組み込まれた暮らしに移行した。自然が多い川縁を、信号機の心配もせず、一気にかけぬけていくのはとても気持ちが良い。走っていると、ランナーズ・ハイに似ているのかもしれないが、頭が空っぽになって、いつもと違うところでいろいろ脳内が整理されてすっきりしていく感覚がある。

瞑想について2種類ある、という話は、

の中でも詳しく書いたのだけど、気持ちがすっきりして自身が統合され、前よりも成長していくような瞑想と違い、キリコの絵のような瞑想は、ただただ重力に潰されていき、いつまでたっても統合を拒む世界なのだろうと思う。絵にも、ひきちぎれた何かのプロセスの一部みたいなのがたくさん、亡霊みたいにまとわりつく様子が描かれてますよね。
キリコの絵は、執拗に同じモチーフがずっと描かれている。途中で作風が変わって、自然を描くようになった時期もあったようだ(しかし、パトロンからは前の画風で描けと言われたりしていたらしい)。
人気があった時期の作風は、自然を額縁みたいに外からはめ込んでコントロールしたがるのだが、そのことで自然が死んじゃって「なんで死んだの?」って途方に暮れているような感覚がある。しかし、キリコはここでとどまって量産することをあまり良いとは思っていなかったのではないか。戦争があったこともあって、同じモチーフの絵をあとから描き直したりしたけれど、その絵が他人に渡ったあと、それは贋作だ、と言って怒り狂ったというエピソードも見かけた。

絵描きは、音楽とは違って(音楽も、録音があるけれども基本は一発勝負)、自身が変化してもかたちとして永遠に残り続けてしまう。たしかターシャ・テューダーも、過去の作品を自分で燃やしたりしていたはず。

キリコはもしかしたら、描くことによって抱えていたテーマを乗り越え、乗り越えた後の彼にとってはもう、形而上的な画風は不要なものになっていたかもしれない。

何かをつくるというプロセスが持つすさまじさ。
その前と後では、確実に何かが変容し、もう、二度と戻れない。

キリコという言霊は、語源を追うと教会やシナゴーグ、それからケイ素(シリカ)という音にも通じていく。

ケルヴランの元素転換理論からすると、シリカは炭素を媒体にして、カルシウムへ転換するというが、おもしろいことに、シナゴーグやカトリック的な教会の材質はカルシウム的であり、イスラム教の聖堂は珪藻土(シリカ)的な材質だったりして、この転換関係になっている。ユダヤ教とイスラム教は犬猿の仲のように言われるが、もともとは同じもののboth sideではないか、というのはここからも裏が取れてしまう。

別の言い方をすれば、キリコの音は、江戸や薩摩の切子ガラスの切子とも同じ音で、おそらくこれらの文化は、教会に用いられるステンドグラスの製造などときってもきれない技術ではないかと私は思う。
虹やステンドグラス、タマムシのような光=構造色という、実体のないカラフルさを崇拝する世界観が、人工的な世界の象徴。なのだ。

そして、フランス語の虹(L'arc an ciel)のcielと、貝殻を現すshellの音が近い。
そして、shellの語源を追うと、シリカに行き着いて(火打ち石としてのflint)またここでも、カルシウムとシリカがほぼ同義ということになってくる。LとRの反転で検索をかけると、sirikaの意味はなんとお酢ということらしい。


シリカは、植物における茎や豆の鞘、稲穂などにたくさん含まれていて、骨格を形作る。大して、人間や甲殻類にとってのソレはカルシウム。
植物と人間は反転して補い合うとされるが、まさに、人間にとってシリカは骨格ではなく、体内におけるキール(Kheer お粥状のエネルギー。インドではカルシウムたっぷりのミルク粥を指すけれど)。しかし!ちょっと語源を遡ると、キールはペルシャ語の شیر (šir) になり、なんとライオンという意味(獅子座ではないか!)。

いろいろ散らかって読みづらいが、カルシウムとシリカの転換の鍵になるのでは、と思うのでここにメモしておく(キッチンアルケミー2巻で追いたい)。

また、キリコの誕生日は1888年の7月10日、太陽蟹座で月が獅子座。やはりこのあたりに絡むエピソードがとても多い。

話がとっちらかってしまったのだけれども、物質的な豊かさと、霊的な豊かさというものは、反比例する。どちらかが増殖すると、どちらかが必ず減る。

自然の世界はこれらを絶妙なバランスで調整する力が働いているが、人工的な世界は、その調整能力をわざともたず、その必要性がでてきたときは、自然へ甘えて丸投げ=生贄という構造利用 になっている。
(この話も1巻と、りんごを解けばに詳しいので良かったら読んで下さい)。



ならべただけだとわかりにくいですね、、あとで丁寧に考察したいのですが、とりあえずメモ。

一見、つながりそうもないシンボルが、語源を紐解くとつながってしまう、という感覚をお伝えしたいために並べてみました。。

バベルの塔の頃、わたしたちは言語がばらばらになり、意思疎通が図れないようにされた。その理由は、力の世界におもいあがって自然を無視するように結束していったから、だっけ。

またわたしたちが、同じ言葉を話すようになるとするならば、言葉のほんとうの意味を、シンボルのほんとうの意味を知らねばならないだろう。

それを加速するために、デジタルが極まっていると思っている。このことに気づくために、これほどまでに極まった時代にわたしたちは生きているのかもしれないと思う。

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