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Living,Loving,Learning #009

私たちの教育制度は、標準化した学習プロセスに子どもの心を順応させようとする(眼科医が私たちの視力を正しく「矯正」するのと同じことだ。)
この制度は自分なりの意味や目的を見つけようとする子どもの欲求を否定する。
ー近視は治る 心と視力のメカニズム ジェイコブ・リバーマン 飯村大助 訳 P277 よりー

かなりゆるめていたメガネの度数を、またさらにゆるめてみた。乱視をまったくいれず、近視の度合いもかなりゆるいままにしてもらった。そんなわけで、かなり裸眼に近い状態。

最近文字入力の作業が続いていたので、メガネをかけている時間が長く、そのせいでかなり疲れていたということに気づく。まだ新しいレンズに目が慣れないけれど、きゅっと締め付けられるようなしんどさ、視野や考え方が一気に狭まる感覚がかなりましになったように思う。

リバーマンは、視力が一気に落ちた前後にはたいてい、心理的にショッキングな出来事が起こり、それから身を守るために、視野と視力を狭めたというストーリーがある、と指摘している。

人は「はっきりくっきり見える方が素晴らしい」と安直に望む。だが、本心では、心がそれを望んでいないこともある。少なくとも、視力が落ちたきっかけになった瞬間はそうだった、ということだとしたら?

わたしはどうして、世界がはっきりくっきり体感できることを拒んだのだろう?その物語をきちんと解きほぐさず、視力だけレンズで補正することは、自分の内的リアリティにとって、ほとんど生命線である大事ななにか、につながることを断ち続けることにつながってはいないだろうか?

人は自分がなぜ生きているのか、という核心について、ほとんど無自覚に、無造作に生きている。「見る」ということにまつわるテーマは、その無造作さに「ほんとにそれでいいの?」というどきっとする問いかけを投げてくる。

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