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ヨウ素(Iod.)とタイムラプス⑤

lapse、なひとたち、それがヨウ素。

ユダヤ人、というキーワードはいろいろ物議を醸すし、センシティブな単語である。陰謀論でもおなじみである。

わたしのいとこは、イスラエル人と結婚した。なんでも、日本人と結婚したら差別がましになるのでこれでほっとした、と言ったとか言わないとか。

そういうことなので、私自身、対岸の火事というわけにもいかないキーワードがユダヤなのだけれども、ユダヤ教やキリスト教に絡んでくるユダヤという定義は、どこかの民族、どこかの血を引いている人、というよりも、むしろそういった土着的な要素から、糸の切れた凧のように切り離された人々の総称ではないかと私は思っている。
そしてそれは、否応なしに流浪の民と化した、ということもあるだろうし、自ら望んでそうなった、という場合もあると思っている。

Photo by Marcel Strauß on Unsplash
https://unsplash.com/@martzzl

ユダヤ人とは、ユダヤ教を信じ教えを実践する人総て、という定義があるが、それに近いだろう。

そして、ユダヤ教(とくに、金融ユダヤ、スファラディユダヤ的な世界観)は、自然や土着的なものを一切排し、人工的な力だけを大事にする世界観そのものである。
だから、世界中から忌み嫌われて叩き出され続けるし、一方で、彼らにすべて悪役を押し付けつつ、彼らの利に聡い能力にあやかって、美味しい思いをし、利用するだけ利用する、ということを多くの人々がやっているのが現実なのだろうと思う。

つまり、経済の持つ功罪の象徴が、ユダヤ的な世界観であり、エンデではないけれど、街中に礼拝堂の代わりに銀行が陣取っている世界において、誰もがある種ユダヤ人のような、lapse な生き方をさせられているということへの気づきは、とても大切なことだと思っている。

そしてこの、銀行が陣取っている、という風景が壊れていこうとしている2022年である。大きな店舗がどんどん駅前から消えている。力の神は役目を終えたのか。それとも、影の支配者として、名誉会長的な地位が安泰となったのであろうか?

Photo by Vandan Patel on Unsplash
https://unsplash.com/@vandanpatel_

ヨウ素の像に戻ろう。

毒と薬が紙一重であるように、何を燃やし、何をかたちとしてとどめておかねばならないのか。何を断捨離して手放してよくて、何を大切にとっておかねばならないのか。

これらがわからなくなって、ぶっこわれている人たちが、悪気がないまま、壊す領域を取り違えてしまう、それが、世の中にあふれるすべての哀しい、加害的な事象、だとわたしはあるとき気づき、愕然とした。

この領域の取り違え、を正常化するにはどうしたらいいのだろうかと。

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