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結ぶと解かれる。解くと結ばれる(3)

カトリックに関しては近年、child abuse(児童虐待)について明るみになり、これをきっかけに信仰をやめた人も多いかもしれない。

私自身も、幼少期に親からしつけと称してスチールの物差しで裸にされて尻を叩かれたり、今思えば非常に理不尽な内容にもかかわらず、正当だと称して有形無形の支配を受けていたとしみじみ思う。

アリス・ミラーの一連の書籍に、わたしはかなり救われた面がある。今渦中にいて辛い人は彼女の本を読むことをおすすめします。

あらためて思うのは、加害者は全てかつての被害者であり、そのことを自身で扱いきれていないままであるが故に、無自覚に連鎖させてしまっている、ということなのだ。

Photo by Juan Pablo Donadías on Unsplash

また、被害者側も、確かに受けた暴力は何の所以もないものであり、決して受忍してあたりまえなものではないのだが、もう少し解像度をあげてこの物語をみつめたとき、同じ「力学構造=ミサ的なもの」に、あやかっているという問題があることを忘れてはいけない。

自身で物語を紡げないまま、ただ力学が持つ残忍さに不平をいったところで、その恩恵にあやかっているままでは次に行けないのだ、、

私が若い頃、ちょうどピアソラやアルゼンチンタンゴが流行り、あの燃えたぎる情熱と、そこにひとつ貫かれた志、のようなものに強くシンパシーを感じ、今でもまた演奏したいと思っている。
一時はほんとうにどうにかしてブエノスアイレスへ移住しようかとまで思っていたのだが、なんと、今のローマ教皇は、ブエノスアイレス出身だということを、今頃知りました。

ブエノスアイレスは移民の街であり、というかアルゼンチン自体が移民が圧倒的に多い国。スペイン語を話すイタリア人、がアルゼンチン人だ、と牧師さまが解説なさってたのが非常に的確だとわたしは感じた。

あの熱い音楽には、この常に葛藤と対立に苛まれる地域で、なんとか生き抜こうとするひとたちの、殺されてしまった自他の物語への哀しみと、もう一度立ち上がろうという熱い思いが交錯している。その光と影のコントラストの激しさにわたしは惹かれ、自分自身に重ねてしまうところがあるのかもしれない。

昨日見た「ローマ法王になる日まで」という映画は、演出が非常にうまく、心情描写にアルゼンチンタンゴをとてもうまく用いていてずるい。権力者がそんな美談だけなわけないやろ、と思うので、まあ、半分くらいは割り引いて観たのだが、それだけ割り引いても、ベルゴリオに魅せられずにはいられない内容だった(映画製作者の思うつぼかもね、、)。

カトリックの信者は、全世界で11億人という、とてつもない人数である。それを取りまとめていくというのは、群れというものの取り扱いを熟知していなければ無理なのだ。それは、抑えつけて威圧するのが上手い人というより、むしろ逆の能力でなければならない。

私が大好きな、シャーマニズムをきちんと踏まえたユング系心理学者であるアーノルドミンデルの、ディープデモクラシーという技法があるのだけれど、まさに、ベルゴリオが実践しているのがこの世界観なのだ。

はげしく対立するひとたちの間に入って、どうやっていくか?ということ。
その、ほとんどシャーマン的な資質、というものを、彼はその厳しい生い立ちの過程で身に着け、そのことがあらゆる方向の人から信頼される所以なのだろうな、と。

なにがいいたいかというと、どの立ち位置からスタートしたとしても、今後、ある派閥だけがえこひいきされるような仕組みというのは、星が許さない時代にもう入っており、そのことを理解しているひとたちがきちんと活躍していくようにちゃんとなっているのだ、ということ。

ある派閥だからNG、こっちの派閥なら信用できるとか、そういう次元の問題ではなく、最早派閥というものが機能しなくなっていくと考えると近いかもしれない。

もちろんいっときは、大きなあるえこひいき集団が、優越するようにみえるかもしれないが、それは必ず長くは続かない。この過渡期、自分さえゆらがなければ、必ず乗り越えられる。そんな希望を感じたので、ちょっと書き散らしてみました。

なお蛇足ながら、もう少し緩い視点でバインド(パーシャ)について書いた過去記事を参考までに。



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