極めていない人

冬もたけなわ、こないだ降った雪がダウンのようにふわふわだった。

結晶がぺたりとした平面でなく、もけもけがあらゆる方向に立体的に発達していてこの上なく軽く、吹けば飛んでいきそうなくらいにそおっと積もっていた。モミの木の枝にも、車のフロントガラスにも、ゴミ箱の上にも等しく舞い降りる。こういう雪が降っている時、音が乱反射して拡散するのでおそろしく静かだ。風もゆらりともしないので不思議なほどゆーっくりとまっすぐに降るから、まるで水中にいるみたいな気持ちになる。

気がつけばもう2月もあと少しで終わる。娘は「もうすぐ夏だよ」と言い、それはいくらなんでも気が早いよと思うけど、今をゼロ地点として3ヶ月前と3ヶ月後をイメージすると、その意外な時間の流れの速さを実感して、そんなに寝ぼけたことを言ってるわけでもないなと思う。確かに日の出と日の入の間がだんだん伸びてきて、日が長くなってきている。仕事を終えた夕方、外に出るともう真っ暗やみじゃないし。
娘の言う、(冬が終わったら来るのが)春だよ、でなく、夏だよ、というのがいかにもこちらで育っている人の言うことだなとも思う。この土地には日本のような春はなくて、季節とさえ呼べないような雪解けと泥水の2週間があるだけだ。その後は驚くほどぱきっといきなり夏になる。



米を毎日食べなくなってからずいぶん長いこと経つ。いわゆる日本で食べているような丸っこい粒のやつは週1、2回程度しか食べない。そもそも炊飯器がなくて、そのつど鍋で米を炊いている。
夕食の主食はおかずによって変わるけれど、パスタとかパンとか長い米(バスマティ)とか芋とかクラッカーとかクスクスとかビーフンなんかをだいたい順ぐりに出している。たぶんもう毎日同じ主食を食べるという生活には戻らないだろうなと思う、少なくとも自分らの意思では。なんらかの必要に迫られることがあれば別だろうけど。

音楽でもおんなじだなと思う。あちこちのジャンルをつまみ食いして満足している。一箇所に留まってとことん掘り下げるということをしないから、わたしは何かを極める人では全くなくて、そのことで後ろめたい気持ちになることもたまにあるんだけど、それはなぜだろう。よく「理解」していないこと、きちんと体系的な知識を持たずにあれこれ気ままに聴くこと、しかもそれについて書いたものを表に出すことを無責任に感じるのかもしれない。あちこち行ったり来たりし続けているから全てのことにおいてにわかものである自覚があって、そこに感じる引け目を拭えないんだなあと思う。

でも自分が書いているのは好きなもののこと、それ以上でも以下でもなく、良くも悪くも皮肉めいた言い方をすれば「お気持ち」のことなので、それ自体はどこまでも主体的で自分だけのものだから、他の人と比べなくてもよい部分ではある。そしてお気持ちは誰もが少なからず持っているもので特別でもなんでもなく、そこに優劣はない。自分としては好きなことについて書く時はできるだけ誠実でありたいし、他人に押し付けるものでもないし、後で見返した時にわたし自身が不快になりたくないので、悪意を混ぜないように、自分なりに気持ちのよいお気持ちについて書こうと心がけてはいる。
ずっと好きだから偉いとか新参だから黙っているべきというものでもないし、気持ちは知識とは別のもので自分の外側では確かめられない。客観的な根拠が求められないから、自分の気持ちについて述べるのはある意味ではとても難しく危険でもある。書く時に本当にそう思っているか、都合のいい嘘を混ぜていないかどうかが大事で、それはその時の自分にしか分からない。他人がどうやっているかについては自分の知るところでもないし、みんな自分の好きにしたらいいと思う。人のやることにけちをつけないということは、自分のやることにけちをつけさせないことでもある。自戒を込めて両立させたい。
思い立ってから数日の間静観しても不思議と醒めずに「書かなきゃ、書きたい」と切実に感じる事柄は、理由や意味が見つからなくても書いておいた方がいいのだろうとも思う。テンションを高ぶらせたり想いを募らせて書いたものを後から読んで恥ずかしくなることはこの歳になってもいまだにあるが、書いてる時の自分にとって偽りなく本当だったならば、その恥ずかしさは引き受けざるを得ないよな、自分のしたことなのだし。


ここ数日はかなり電子音楽に気持ちが傾いている。YoofeeというアーティストのEPがよかった。エレクトロジャズ?なんだろう、特定のジャンルにすんなりとははまらない感じ。

必ずしも似ているというのではないんだけど、この人レイハラカミから影響を受けているんじゃないかなあと少し思っている。1曲目で分かりやすくレイハラカミのシンセみたいな音が後ろのほうでプォーと鳴っているから、というだけじゃなくて、レイハラカミがあの音色の根底に持っていた意外に太いファンクネスみたいなものに通じる何かを感じる。

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Khotinの新譜もよかった。体調を崩したうちのうさぎを病院に連れて行く車の中で、このアルバムを小さなやさしい音で聴いて、心配できりきりとしていた心がなぐさめられた。帰りはお会計でまたきりきりしたふところがなぐさめられた。467$…

この人の音、白昼夢みたいな軽いトリップ感があるなと思う。重くなくてほの明るい。性善説という感じがする。
実はこの人とツイッターのDMでほんのちょっとやりとりしたことがあるのだけど、普通に気さくないい若者だった。ある日彼が「ひまで寂しいよー誰かかまってー」とかなり無防備なつぶやきをしていて、たまたまその直前に車で彼の前作「Finds You Well」を気持ちよく聴いていたので、普段ならわたしはそんなことをしないのだけど、これは何かの巡り合わせかもと思って「さっきアルバム聴いてたよーすごくいいね」みたいなことを書いて送って、世間話みたいなたわいもないやりとりをして、おすすめのアーティストを教えてもらったりした。気の利いたことは何も言えなかったので、Khotinにはつまらなかったかもしれない。でもまあ彼は話をする相手は別に誰でもよくて、少なくとも暇をつぶせたのだし、わたしには直接彼に感想を伝えることができたのでそれはよかった。その時にぼんやり感じた彼のおだやかで人懐こい印象が、なんとなく音にも出ているなあと思う。

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ジャンル分けが本当に不得意なくせに、Apple Musicのジャンル表示には素直に同意しないひねくれ者なのは自覚している。RAMZiというモントリオールのアーティストの「hyphea」というアルバムがとてもいいのだけど、アンビエントって表示されている。これアンビエントかなあ?ビートにもうわものにもアンビエントと呼ぶにはけっこう刺激的な何かを感じるんだけど、わたしのアンビエントの定義が間違ってるのかもしれない。

もともとキノコのドキュメンタリーのために作られたトラックらしいが、そのキノコの映像作品をvimeoで見つけた。キノコ、かわいらしくてどこか宇宙的なたたずまいの奇妙な生きものだなと思う。食べておいしいものと、食べて死ぬものの両方があるのもよく考えると妙だ。

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電子音楽の中にはたまに涅槃みたいな世界にわたしを連れて行くものがあって、ちょっと怖いなと思っている。Aphex Twinの「Selected Ambient Works Volume II」は特にその引きがかなり強い音なので、ちょっと精神状態が弱っている頃にくり返し聴いていたことがあるけど、あれはあんまりよくなかったなと今は思う。いちおう普通に生活を送っていたが、意識が別のところに吹っ飛ばされて地に足がついていなかった。気持ちが落ち着くと思って聴いていたけど、何かが少しずつ麻痺というかむしろ壊死していくのに気づいてやめた。語弊はあるかもしれないが、あれは生きながら死ねる音だなと思う。ねこぢるがあれを葬式で流してほしいと言っていたの、すごく分かる。素晴らしい作品なのだけどわたしにはドープすぎるので、今はあまり気安く聴かないようになった。
あそこまで否応なく引きずりこまれはしないものの、Imaginary Softwoodsの「Notional Pastures of Imaginary Softwoods」もふわっと涅槃に誘う感じの音だと思った。

でもこれはもう少しライトで明るさもあり、よい意味でちょうどよい浅さがあるから、日常にもうまく溶けこませることができて変な意識の乖離は起こらないと思う。わたしは瞑想は特にやらないのだけど、これを聴いてぼうっとしていると似たような効果は得られるのかもしれない。


うさぎがあまり餌を食べなくなってしまったので、強制給餌といってシリンジでピューレ状の餌を無理やり口に注入するというのをやらなければならない。投薬は1日2回、強制給餌は4回もやる。もう少し薬の効き目が早く出るかと期待していたけど、思ったほどすぐに改善しなくて長期戦になりそうな予感がしている。強制給餌を始めてから、うさぎがわたしの手を少し怖がっているというか、気配を感じるとぎくっとするようになってしまい悲しい。固定されて無理やり食べさせられるのが嫌なのは重々分かっているのだが、死なせてしまわないためにやらなくてはいけない。今もすぐとなりでうずくまっているが、そろそろ心を鬼にして今日最後の給餌をしなくては。ああ、早く良くなっておくれ。

おとなしいよなあ、この子… うちのうさぎは水揚げしたマグロのようにあばれるのでなかなか大変。

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