白い世界、色のついた光

11月が来て、寒い毎日が続き何度か雪が降り、そのまま積もって残ったままになった。ようやく。

白くなりました

紅葉が終わってから雪が積もるまでの1ヵ月ほどの間は、灰色の風景の中で黙ったまま何かがやってくるのをじっと待っている。やがてその冬はじめての雪が降ると、ああとうとう来たかと思い、うれしいような絶望するような複雑な気持ちになるのだが、しばらくすると雪は消えてしまうので、また気を取り直して灰色の待機時間を続ける。それを何度か繰り返すと、決定的な雪の1日というのがあって、そこから雪は居座りつづけてもうどこにも行かない。落ちた穴の中でじっと耐えるような暗い11月はそうやって終わっていき、来年の春まで白い風景の中で毎日を続けることになる。その白い風景も、みすぼらしく汚れたりぱあっときれいになったり、高くなったり低くなったりを繰り返しながら半年近く続くことになる。

ハロウィンが終わると、あちこちの家で今度はクリスマスのイルミネーションが飾り付けられる。わたしはハロウィンには何もしないけれど、11月に入ってから簡単な電飾をつけるのはここ何年か続けている。通りに面した2本の木に色のついたLED電球をぐるぐると巻きつけるだけ。センサー付きのタイマーがついていて、一定の暗さになってから8時間点灯している。

これだけっす

あまりクリスマスっぽくしすぎないようにしているのだけど、というのもわたしはかなりめんどくさがりなので、この電飾は冬の間はつけたままにしておいて春が来るまで片付けない。だからクリスマスを過ぎたら外さなければならないようなデザインのものはつけたくない。たいした特徴も工夫も面白味もなく簡素なものなのだけど、何もないよりはいくらかマシで、こごえる寒さの中を家に帰る時、遠くからうちの電飾の色や光が見えてくるといくらか気分が軽くなるのだ。

今調べてみたら、1年でいちばん日没が早い日は12月21日の冬至では必ずしもなく、どうやら12月9日のようで、午後4時にならないうちに日が沈んでしまう。何それ、もうすぐじゃないか。でも確かに最近、暗くなるのすげえ早いなとは思っていた。日の出がいちばん遅いのは、1月1日の元日らしい。冬至を中心にそれぞれ前後にズレているのだな。いずれにしても12月中旬からは15時間半もの間、太陽が出ていない=夜、ということになる。結局のところ、あまりにも長すぎる暗い時間を明るい光やきれいな色でどうにかして気を紛らわせてやり過ごすために、みんな多かれ少なかれイルミネーションをつけるんじゃないかなと思う。


娘が16歳になり、子育てと言うよりは共同生活といった方がだんだんしっくり来るようになってきた。とはいっても、まだまだ精神的に幼く全く自立できていないし、本人のやりたいことと実際にできることの間に乖離があって、大人同士の共同生活のようにはうまくいかない。まだおのれの輪郭が定まらず手探りで成長している子供と、大切なことからくっだらないことまでぶつかり合いながら、毎日いろんなことを考えさせられる。

親の立場でありつつも自分自身が16歳だった時を思い出しながら、今の自分が娘に対してできること/できないこと、すべきこと/すべきではないことを判断しなくちゃいけないのだが、その上でわたしが感じるのは、娘は娘の時間を生きているということで、誰も先回りできないし答え合わせもできない、わたしが16歳の時に感じたり経験した事は、今の娘には必ずしも当てはまらない、役に立たないという可能性を受け入れなくてはならないということだった。自分の子供とはいえ当然の互換性みたいなものがあると思うな、というようなことで、それはわたしと娘が16歳の時に生きている文化環境と時代背景が全く違うからでもあるし、そもそもが別の人間だからということでもある。16歳の自分と16歳の娘が生活している国が違うということは、その視点を意識するのにいくらか助けになってはいる。常識のようなものを引き合いに出しても、それを共有していない相手を力ずくで説得したり論破する事はできないのだ。たとえ共有していてもするべきことではないが。

それでも彼女の親はこの世にわたしを含め2人しかいないので、やはり他人のように客観視しすぎず密にガイドというか介入していく必要はあって、そのあたりの関わり方において、親身になることと干渉のしすぎを見極めるのがなかなか難しい。やはり親子なので、おたがいに私情が絡んでくることがそれをより一層ややこしくするし、非生産的に消耗しているなとも感じる。家という閉鎖した空間の中で、お互いが1日の終わりに顔を合わせる時、素の状態で弛緩していて、さらにくたくたに疲れていたりするということも、話し合いにおいて1つの支障になっていると思う。

旦那の場合は、自分の幼少期がなかなか過酷なものだったことから、自分の娘はしあわせにしてやりたいという思いが強く、やや過剰な自己投影をしてしまっているきらいがあり、さらに反抗期の少女特有の父親に対する不機嫌な態度を理解することができず、ひどく疲れて傷ついてしまっているようだった。つまり、子供だった頃の昔の自分と今の娘を同一視しがちなことで、関係がうまくいかなくなっている。現実には性別が違うと分かり合いづらい部分もあるし。

子供を育てていると、自分の子供時代を思い出して何かの手がかりにしようと意図的に試みるだけでなく、否応なしに抗えないやり方で引っ張り出されるなと思う。しかも潜在意識のあたりの、ふだん自覚してない領域に隠れていた子供の自分が出てくる。これまで自分が大人になる中で、清濁併せ飲みながら身に付けてきたあざとい知識や生き方などはどこかしら一旦脇にどかして、必死に「いい親=もうひとりの自分(しかもなるたけクリーンな)」になってみようとしていて、そしてそれは一見、親としてまっとうに子供を守るという保護責任を果たしているかのように見えるのだが、実際のところ度が過ぎると娘をコントロールしようとしている事がある。そういう場合は自身の子供時代のネガティブな体験に結びついていることも多い。自分が子供の頃はそんなことをさせてもらえなかった/買ってもらえなかった、から、やらせない/買わせないなど。もしくは反動でやらせようと無理に押し付けたり。満たされなかった昔の自分の願いからくるものなのだなと思う。

今の子供の存在を通して呼び戻されたそういう自分は、否定せずにむしろ認知してあげていいとは思うけど、それはあくまで過去の残存記憶を受け止めることが自分自身に対する一種の治癒なのであって、子供にそれをお仕着せして代役を演じさせるのは間違っている。迷惑な自己満足でしかないし、子供に負荷をかける上にその子の意志をくみとらず無視している。でも、あぶなっかしいことをやっている子供に口や手を出さずにいられない時もどうしてもあって、親ってそこまで理性でなにもかも自制してなきゃだめなん?親だってロボットじゃなくて人間なんだから、エモーショナルになることはそりゃああるよ!という自問自答の日々。

親の役目は長期戦であり、しかも子供の成長で常に状況が変わっていくし、その傍らで自分の仕事や健康状態なんかにも影響を受ける。うちは子どもがひとりしかいないけれど、こんだけいろいろ考えるものなんだなと思う。ため息が出ちまうな。娘は娘で、親は親でそれぞれの苦悩を生きている。


まあだからいい音楽でも聴かなきゃやってられないよね。ということです。

井上薫のこと。
彼の名前は90年代終盤の学生時代に知ったけれど、あまりちゃんと聴くことなく長いこと時間がたっていて、彼自身のDJないしリリース活動にもいくらかのブランクがあった印象がある。2020年にChari Chari名義で出された「We hear the last decades dreaming」がすごくよくて、パンデミック当初のぎすぎすした日々の中にうるおいをもたらしてくれた作品だったし、その後にEtchedというメディアが、井上薫が伊豆下田の夜明けの崖っぷちでDJをしている素晴らしい1時間の映像をYoutubeで公開しているのを見た。

これ、スマホみたいな小さい端末じゃなくて、それなりのサイズ感の画面で見たほうがより素晴らしいだろうと思ってテレビで見た。崖の起伏と水平線の直線、闇から少しずつ明るくなり太陽が出る瞬間など、エレクトロニックでありながら自然美を強く喚起してくる彼の音楽と絶妙にリンクしていて感動的だ。この後Etchedはいくつかのビデオを公開した後は続かなくて、かれこれ3年更新されていない。とても残念だけど、少なくともこの唯一無二と言えるような記録が残されているのはよいことと思う。
そして彼が2作品を先日立て続けにリリースしたのだけど、Mulemusiqからの2013年リリース作品の再発がよかった。

当時は日本オンリーのリリースだったから、わたしにとっては実質新譜ではある。わたしが彼に持っているイメージの民族音楽+コズミックな楽曲の他にも少しテンポおそめのゆるいハウスみたいなトラック(6、7曲目)があり、とてもよかった。

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Noteと旧Twitterでフォローさせていただいている大久保祐子さんのツイートで知って聴いたもの。個人的にRed Snapperってすごく久しぶり、と思ったのだが実際にしばらくぶりの活動だったようだ。大久保さんおすすめの一曲目がダブ味があり確かにいちばんよかった。David Harrowという人を知らなかったので調べてみるとOn-U関係の人でAnne Clerkとの共作で知られていたらしい。友人でAnne Clerkを好きな人がいるのでこのEPのことも教えてみた。うむ…口コミでつながっていくな、と思う。
大久保さんはわたしにとってnoteを書くモチベーションになった存在で、プロフェッショナルな彼女の書いている内容や読まれている範囲などはまったく自分とは比較にもならないが、近年はいくつかのイベントで定期的にDJをしておられるようで、日本に帰った際に機会があればぜひ行ってみたいと思う。


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これはEle-kingのデンシノオトさんによる丁寧な解説を読んだ後に聴いた。20分を超えるアルバムタイトルの同名曲、わたしはあまり長い尺のトラックが好きではないのだが、ミニマルに繰り返されるフレーズが静かに始まり、しだいに感情の波に持ち上げられ、揺さぶられて崩壊していく様子が圧倒的だった。音楽が号泣して痛みに引き裂かれていた。曲が終わるというよりぶつっとぶったぎられて途絶え、次曲のウクレレがのんきに始まるのが趣深い。生きていく人間ってそういうとこある。ある出来事により激しい悲しみに突き落とされた時、それはいくら泣いてもその場で終わるわけじゃなく、これからずっとそれを抱えて生きていく。それなのに、というか、だからこそ、「………なんか食おう」みたいにふと我に返り意識のチャンネルが切り替わって、平然ともぐもぐ何かをほおばったりする、その感じに似ていると思った。
深く深く悲嘆しながらもそれに溺れずに浮上していつもの生活を続ける、できるだけ平然と。生きていく限り悲しみも常に意識の中にあって、たまに深く沈み、それでも浮上して生きながらえることを繰り返し、そのうち悲しみがゆっくりと薄らいでいく。悲しみが薄らいでいくことが、誰かのことを忘れていくことを意味する時、また別の悲しみをもたらしたりするのだろうか。

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これもレビューによって曲に深く入り込めたケース。何度か耳にした時には正直言ってそこまでの衝撃はなかったのだけど、The Guardianのインタビューを読んで歌詞の聴こえ方がまるで変わってしまった。
いわゆる宗教二世として育ち、16歳の時自らの意志でそこを出てからようやく30代目前で自分のバンドを組み、それがある程度の軌道に乗ってそろそろパートナーと家庭を持とうかと考えていた矢先にバイク事故にあい、文字通り何もかもを失ってから7年をかけての再起のアルバム、こう書くとあっさりしてしまうが、アルバム全体に流れているおだやかな語り口の繊細な歌声は、けっして技巧的には上手いとは言い難いもののその素朴さに魅力があり、紡がれる言葉は飾りがなくとても率直だ。特にアルバムラストの「Do you need a friend」は、いろんな困難をくぐりぬけてきた彼の、人間や人生に対するある種の悟りや洞察の深さを感じさせ、それでいて歌詞のシンプルなフレーズひとつひとつがとにかく慈悲にあふれていて真摯だ。
エンディングに向かって曲のテンションが高まっていく中、あれほど曲の前半部分で優しさと共感に満ちた言葉を誠実につづった彼が、それでも叫ぶように何度も歌わずにいられなかった「if you really wanna know / i’m barely making it through the days」という部分では、過去の経験を受け入れ自分の糧にして、優しく強くなっても、本当のことを言えば今でも毎日がギリギリでつらい、と彼が弱さをさらけだしている。これ以上の真実はありえないひりひりした正直さと、こんなふうに弱さをさらけ出せる彼の逆説的な強さに胸を打たれる。「people come and people go / but the loneliness is always the same」というのもつらかったいくつもの別れに裏打ちされているのは明らかだけれど、彼の歌が絶望しているようには聞こえない。むしろそこから聴き手に寄り添っていくようにすら感じられる。

音楽を何の知識や先入観を持たずに聴いてこそ得られるものはもちろんあるのだけど、わたしにとって「Do you need a friend」は、何も知らずに初めて聴いた時よりも彼の生き様を知った後の方が強く訴えかけてくる歌になった。もしかしたら単に音楽というよりはむしろ物語として受けとるようになったからかもしれない。

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