夏のしっぽ、とりとめのないあれこれ

もう夏は終わりかけなのに、あっさりと行ってしまわず妙に思わせぶりに天気がよく、ここ数日は気温も30℃近くまで上がってかなり暑い。でもやはりそれは盛りを過ぎた夏のしっぽにすぎなくて、まっ昼間でも太陽の光が黄色っぽい。風景がうっすらセピアがかっている。夏至の時なんて、こちらを射るようなパァンとした強い白だったから、もう同じじゃない。日暮れになると一気にすうっと暑さがひいていく。これは夏のしっぽかもしれないが、秋のおでこのような気もする。

毎年のように「今年の夏は異常だった」と言っている気がする。季節がまともだったことなんて、久しくないんじゃないだろうか。とにかくこの夏は7月以降は涼しく雨が多くなり、6月の乾いた天気による山火事続きが嘘のようだった。総括すれば農作物が不作になるくらいの天候不順な夏だった。過剰な火の後の溢れかえる水、極端すぎる。

もう9月になってしまったが、まだひまわりが咲いていない。9本のひまわりはどれもわたしの背丈を超えるまで育ってはいる。今週になってようやくあと数日で開きそうなところまではこぎつけた。まあでもiphoneの中の写真をたどってみると、去年も9月上旬すぎにやっと花が咲いたようなので似たようなものか。

でも朝顔は今年あきらかに不調で、2年続けてヘブンリーブルーという朝顔を植えているが、去年は8月の半ばすぎに花をつけている写真が残っているのに、今年はまだ咲いていないし、つぼみもちらほらとしか見当たらない。

たまにこういうすごくメタリックな甲虫が朝顔の葉をかじっている

庭に置いたものと窓辺にグリーンカーテン的に這わせたものがあるが、どちらも若干つるぼけ気味かもしれないのはなぜだろう。来年はグリーンカーテンにはマンデビラか何か、そんなに伸びなくてもいいから早めに花が咲くような別のものを使おうと思う。

今年初めて植えてみたグラジオラスは華やかでよかったが、けっこうたくさんの花芽が折れてしまい、結局家の中で切り花にしたものが多かった。きれいだったけど、やっぱり庭で咲いてほしかったなあ。花瓶の水に差していると、どんどん色があせていってしまう。まだこれから咲くつぼみもあるから寒くならないでほしい。思ったより開花までに時間がかかったのはやはり7月の気温が低かったせいかな。

blue tropicというグラジオラス

そして…毒の花はついに咲き始めてしまいました。これで人をあやめてしまえるなんて。ハチドリがトリカブトの蜜を摂取してしまったらどうなるかすごく心配で、調べてみたものの何も分からなかった。蜂は大丈夫らしいけど。

多年草だから冬越しできるけど、正直言って迷っています

どこか秋の気配を感じる最近の空気感にLaura Grovesのアルバム「Radio Red」がすごくしっくりきてよく聴いている。透明感のある素敵な声。アルバム全体を通してとてもよいのだけど、特に「Synchronicity」が好き。ギターのうるんだ響きとビブラフォンの音色のまるい粒感、彼女の声のコーラスの重ね方、シンセのクリアなトーン、ため息の出るすばらしさ。


今年の春のリリースなのだけど、Powers / Pulice / Rolinのアルバム「Prism」も秋の金色の日差しに合うと思う。Apple musicではアンビエントに分類されてるけどなんか違うような…アンビエントと呼ぶには実在感がありすぎてけっこうマッチョな音だと思うし、もっとジャズとかポストロック(死語か?)に近い気がする。曲によってはシューゲイズっぽさもかすかにあって、解説にはアメリカーナという言葉もあるのでかなりクロスオーバーしている感じ。感情過多でねばっこいサックス、降り注ぐようにかき鳴らされるギター、そしてそこに重なるチェンバロかマンドリンに似た心地よくさざめく金属音は何の楽器なんだろうと思ったら、ダルシマーというものらしい。へー。雲ひとつなく突き抜ける秋空の青と、紅葉の赤や黄色のすべてが混ざり合ったすこぶる彩度の高い晴れた一日、軽い目眩を覚えるほど美しくてちょっと悲しい高揚感がある秋の風景にとても合うはず。


Sign Libraが秋に出すアルバムからの先行シングルも好き。彼女のこれまでの作風から、神秘的で高貴なイメージを持っていたので、ちょっと意外なくらい茶目っ気がある。Aimez-vous le chat poilu? って…そりゃ好きっすよ…MVがすごくりっぱな宮殿でフェンシングしているのも謎だけどかわいい。


Barkerのepもよかった。何年か前の彼のアルバムは、いいのはなんか分かるけどいまいちピンとこなくて好きにはなれなかった。世間では評判いいのに自分はぽかーんみたいなこと、まあまあある。このepは4曲入っていて、前作のアルバムより音圧がありゴツいというか、わりと正攻法でテクノテクノしており、こってりしていて聴きごたえがある。それぞれのトラックのカラーがはっきりしているのもいいし、もしかしたら90年代っぽいと言われそうなものを感じる。Smalltown Supersoundにレーベル変わったのね。この曲はいちばんトランシーで明るくて、運転しながら聴くと気持ちがいい。



料理研究家のリュウジお兄さん、晩のおかず何にしようと悩むような時などにYoutubeでときどきビデオを見るのだけど、なんかこの人、他の料理関係者と比べてちょっと異端だよな、なんだろうとずっと思っていた。普通モードの「バズレシピ」でも表面的にはまともにやっているものの、料理モノにありがちなほっこり感の欠落と異様な乾きを感じていたが、特に「虚無シリーズ」ではそれが顕著で、なんか向井秀徳っぽいのだ。顔が似てるというより、あくまでもかもしだす雰囲気の部分だから異論はあるだろうが。でもこのサムネイルは向井秀徳っぽい。

包丁も鍋も持たない彼の話を聞いていて、料理に関係ない引き出しがかなり多い人なんじゃないかなと思ったし、あけすけな率直さにむしろ好感を持った。すごく現実的で冷徹なのに、はすに構えたりニヒルにならず、ひとつの何かに熱を傾けることを選んだということが、向井秀徳に通じるものを感じさせるのかもしれない。虚無の境地で人気商売という波乗りをしながら、合理的で分かりやすくあることに心を砕きつつ、彼は彼の理由をもって、生きて喰うということに対して至極シビアに鍋をふるっているように見える。


グザヴィエ・ドランが映画を撮るのは辞めると言っていた。もちろん残念なのだけど、正直あまり驚きはしなかった。2013年にわたしが2年間の日本滞在のあとケベックに戻ってきた頃、彼はカンヌとかでバンバンもてはやされて注目を集めまくっていた。翌年に映画館で初めて見た彼の作品は「Mommy」で、その後「Tom à la Ferme」と「Laurence Anyways」を時間をさかのぼる形で見て、彼の映画の中で描かれるむきだしの感情に触れる瞬間にくぎづけになった。わたしはごく限られた本数しか映画を見ないので、映画鑑賞の基礎知識みたいなものはあまり持ち合わせていないけれど、この人と同時代を生きてこの人の生きる土地で、この人の言語で語られる作品に立ち会えることはものすごく幸運だと思った唯一の映画監督だった。

「Laurence Anyways」はもしかするとわたしがこれまで見た中で一番好きな映画かもしれない。拡大解釈になるかもしれないけれど、おそらくこれはソウルメイトについての物語で、自分に正直に生きようとするひとりの人間と、その劇的な変化をもがきながらも受け入れ、自分も一緒に成長して添い遂げようと献身的な愛情を捧げるもうひとりの人間の姿を描いている。それなのに、お互いを深く理解すればするほど、どうしてもふたりは傷ついてしまう。離れても思いが深くて何度かやり直すけれど、それぞれのゆく道が次第に分かれていく。誰かを愛することのどうしようもなさが描かれていると思う。娘がいつかもっと成長して、誰かを本当に愛するようになった時に見てほしいと密かに思っている。

グザヴィエ・ドランの映画は映像がドラマチックで、そこに絶妙な加減で選ばれて重ねられた音(楽)が余韻をいっそう深いものにする。主人公が誇らしげに登場して人々の注目を集めるパーティ、送られた詩集を読んでいるうちに感情の波があふれだし、リビングの天井から滝のように落ちてくるありえない水、住宅街に降り注ぐ色とりどりの服、2度目の別れの後の再会で、何かが決定的に通じ合わなくなってしまったことを悟ってその場を黙って去る時の枯葉の嵐。どのシーンも画と音に飲み込まれるようだ。ラストのエンドロールまで3時間近い長さを感じさせないほど、映るものと聴こえてくるもの全てがとにかく丁寧に織りあげられている。

「Laurence Anyways」は、わたしにとっての映画という個人的な概念のエッセンスが、ぎゅっと濃縮された上に常にだだもれしている作品なので、これを超えるものに出会うのはかなり難しいし、彼の作品であっても近年のものにはあまりピンとこなくなってしまったきらいがある。「Mommy」までの作品ではいろんなシーンがのびのびとカラフルに映され、登場人物の「生きている感じ」が強烈だったけれど、その後はどこか重さを感じさせる雰囲気の作品が多くなり、おそらく彼自身もいろいろ悩みながら作っていたのではないかと思う。まだ10代のうちにデビュー作を撮り、そこから常に注目や批評にさらされながら大人になっていくのってかなりきついだろうな。一般的に言っても大学から社会に出ていき経験を積んでいくような年頃の、アイデンティティのシフトが起こるような人格形成に影響の大きい時期だったわけで。

彼なりに入魂して撮影されたと思われる最新作の5話完結TVシリーズ「La Nuit où Laurier Gaudreault s'est réveillé」を見て、さすがに映像の魅せ方や人物描写のうまさに感心しつつも、グザヴィエ・ドランの作品としてではなく、いちテレビドラマとして扱われた時にどんな風に受け止められるのかなとは思った。実際のところ思ったような評価が得られなかったようだから、彼は深く失望しただろう。資金作りも相当に大変だったようだし。そこから今回の映画引退発言につながっていく。

ここケベックでは彼自身の人間性についてとやかく言う輩はけっこう多くて、ドゥニ・ヴィルヌーヴとか故ジャンマルク・ヴァレみたいに、世界的に認められているケベックの映画監督と比べられては、スノッブだの謙虚さがなくて自信過剰だの散々言われることもままある。でもそんなの最初からこの人はそうだったじゃん!10代最後の歳に天才だってみんなから崇められて、ルックスもよくておしゃれですごい作家性があって才気走っていた。誰からも愛されるような優等生じゃなく、驚かせるような眉をひそめられるような言動をして、世間がざわつくこともよくあった。彼はそんな感じで走りはじめて、ここまでそれを続けなくてはならなかったけど、その結果、今の彼は立ち止まらざるを得ない所に来てしまったのじゃないかと思う。映像作品の消費のされ方もこの10年ですごく変わって、自分の内面だとかクリエイティビティだけを気にしていればいいわけでもないだろうし。

彼は映画を取り巻くもろもろにほとほと疲れて少し拗ねてもいるようだが、MVとかテレビの作品は続けると言っているし、この人から映画を取り上げるなんてやっぱり無理なんじゃないの?と思う。宮崎駿みたいに、やめるやめると言いながらしれっと戻ってきてほしい。今はたぶん充電しなきゃいけない時期なんだろう。彼はまだ35歳にもなっていない。老成した若者だった彼が、本当に老い始めた時に何をやろうと思うのか知りたいから、わたしは待つよ。

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