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戦国の浪漫あふれる伊予甘崎城

村上海賊の城から藤堂高虎の城へ

瀬戸内海の沿岸や小島には、かつて多くの城が築かれていました。甘崎城(愛媛県今治市)もそのひとつで、大三島の東岸沖にある小島(古城島)全体を城郭化し、南に急流の鼻栗瀬戸、北に安芸国(広島県西部)との国境を臨む、芸予諸島の要衝に位置する海城です。

天智2年(663)、白村江の戦いで日本軍が唐軍に大敗した後、唐軍の侵攻に備え海防のため甘崎城は築かれました。この城は日本最古の海城と言われています。

戦国末期には来島村上系の村上吉継の城だったのが、天正13年(1585)、小早川隆景率いる3万の軍が伊予に侵攻、村上三家のうち、因島村上氏、能島村上氏は伊予の地を去ります。

関ケ原の戦いの後、伊予半国の大名になった藤堂高虎は、今治城を築き始めると同時に、安芸福島領の警戒や芸予諸島の要衝管理のため甘崎城を改修し、支城としました。慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊勢に国替えになった際に、廃城になったとされます。

潮が引いて現れる岩礁には、村上海賊時代の船を繋ぐ施設である岩礁ピットや、高虎時代に築かれたであろう石垣を見ることができます。

亀老山展望公園から眺めるしまなみ海道

年に数回の海割れ現象

藤堂高虎時代には総石垣の城となり、島の周囲を計32列、延長約700mの石垣で囲っていたとされています。

昨年の10月に宇和島市立伊達博物館からの帰りに、甘崎城に寄りました。その時は、対岸から指をくわえて眺めただけでしたが、島が陸続き(海割れ)になる時を狙って訪れることができました。(2024年7月23日)

愛媛県指定史跡「甘崎城跡」の看板
まだかまだかと何度も確認に・・・うっすらと砂地が見えています
17時30分頃になるとようやく渡ることに
上陸した途端この石垣めざして走りました
南側には隅部が算木積みになった石垣が3〜4段分ほど残っています
マイ御城印を忘れずに
船を繋留させるための杭が立っていた岩礁ピット跡
海を渡るときは砂地ですが渡ると岩場なのでおニューの長靴で
城の西側と東側は石列(石垣の根石)が見られます
海に面した虎口跡は東側にその石列が残っています 赤備えは夫です
私は穴太衆Tシャツ着用で上陸
甘崎城から多々羅大橋を眺める
私の頭のなかには「村上海賊」のテーマソングが流れていました(そんなのないけど  笑)

海を破る者

海割れ現象で、今村翔吾さんの小説「海を破る者」が思い浮かびました。

以前、両親と広島県の原爆ドームに行き、しまなみ海道を経て大三島の大山祇神社におまいりしたことがあります。その頃はすでにお城めぐりにハマっていましたが、村上水軍には関心がなかったようです(^◇^;)

2016年7月に、村上水軍ゆかりの史跡めぐりをしています。今治市の村上水軍博物館を訪れ、能島城のまわりをぐるっと潮流体験を楽しみました。来島城は船で上陸できました。

一遍上人ゆかりの大山祇神社には二度行きました。宝物館には、鎧、兜、刀剣類などが展示され、越智押領使好方の日本最古の大鎧や、河野一族のものや源義経、源頼朝の鎧、大森彦七所用の国宝の大太刀等が展示されています。また境内には、一遍上人由縁と伝えられる宝篋印塔が3基並んでいました。

この酷暑にどこにも出かける気にもなれずにいましたが、甘崎城への上陸は今回と来月を逃したらまた来年になります。二年前から行ってみたいと思っていたので、ようやく叶いました。

海割れの瞬間を見たい、戦国期の遺構をこの目で見たい!と暑さも忘れ、島に渡った途端駆け足で一周しました。そして、車に戻るやいなや、どどっと汗が噴き出てきて「暑い!!」と言いながら主人と笑いました。

弾丸で訪れたので、帰りは徳島からフェリーで和歌山に帰ってきました。この日以来、パワーを貰ったのか暑さに慣れたのか、酷暑も苦にならなくなりました。

移住するならどこに住みたい?と聞かれたらずっと瀬戸内海方面と答えるほど、この地域が好きです。また行かなきゃ!

8年前だから若い(笑)
和田竜さんの「村上海賊の娘」のモニュメントの前で
能島城
来島城
大山祇神社河野通有兜掛の楠
大山祇神社境内にある宝篋印塔

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