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自然に善悪はない

眠りにつく前、ふと「自然に善悪はない」という言葉が浮かんできた。


「何を善いものとするかは、どんな目線で見るか次第」という話をしたからだろう。


本当にそうなのだろうか。


カマキリがイモムシを食べることは悪なのか。

つる植物が他の植物に巻き付いて生きることは悪なのか。

猫は自然の中では3,4年しか生きられないというが、それは悪なのか。


そこに価値判断をする主体を置かなければ、全てはただ「起こること」だ。

地球の目線になろうが、宇宙の目線になろうが、

そこに価値判断が生まれれば、価値判断をする主体という立場から逃れることはできない。

観察主体がなければ観察されるものもないし、
価値判断の主体がなければ、善悪もそこにはない。

起こっているのはただ、善悪を判断する、人間という、わたしという存在がそこにあるということ。

存在があるということさえ、それを観察する主体がなければなくなってしまう。

色即是空しきそくぜくう 、一切の存在はくう である。

わたしたちが世界に意味付けや価値付けをすることを逃れられない存在だからこそ、そんな言葉があるのかもしれない。


観察主体なしには、自分の存在さえ確かなものではなく
物事の価値判断はどこまでいっても誰かの観察に支えられた自己という儚い存在の生み出す幻想でしかない。

だとしたらどう生きるのか。


自分が儚い存在であると同時に、自分に課した価値判断もかりそめのものでしかない。

誰かがラベルを貼ったものかもしれないし、世間や社会という、どこにあるのかもわからないでも強烈な存在が貼ったラベルかもしれない。

いずれにしろ、それは、世界を包んだ霧に映る幻影でしかない。


霧の奥には山々がある。

流れ続ける水がある。

自分もそんな存在なのだと、ただ生きる。


心に生まれるもの、目にするものは全て実態がないものだと知りながら、
それでも確かに感じる美しさの響きにしたがって生きる。


遠くで鳴く鳥の声を聞きながら、そんなことを思う。



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