「ここは自分の星ではない」という感覚は、いのちとのつながりを取り戻した証
変容の道のりにご一緒していると、時折出会う、共通の感覚がある。
「ここは自分の星ではない」
家だと思っていた場所が家ではなかったような、
家族だと思っていた人たちが家族ではなかったような、
仲間だと思っている人たちにも、決して相容れないものがあるような、
そんな、
物悲しさ覚えるような感覚だ。
孤独だけれど、どこか安堵感もある。
孤独の中に、くつろぐことができる。
人生の前半、わたしたちは物質的・社会的なつながりの中で「自分」を生きる。
血のつながり。
同じ場所で暮らすということ。
教室、学校、職場・・・。
その中では必ずしも、「いのち」そのものが発揮されるわけではない。
見えるもの、
測ることができるもの、
正しいとされるもの、
評価されるもの・・・。
そんな中で、
必死に居場所を獲得しようとする。
そんな時間を、
十数年、場合によっては数十年過ごす。
だけれども、そのままでは生きられない。
内なる声に耳を塞ぐことができなくなるか、
飛び出さずにはいられなくなるか
身体や心が悲鳴をあげるか。
劇的な形とは限らない。
だんだんと、でも確実に、
どうにもこうにも隠すことのできない何かが、
滲み出てくるかもしれない。
とにかく何かの形で、それまでの自分ではいられなくなる。
いのちに嘘がつけなくなる。
そうして、
痛みとともにそれまでいた場所や関係性を手放し、
新たな場所を見つける。
心で深くつながる人たちを見つけられた。
ここが本当の居場所。
ここなら本当の自分でいられる。
そんな風に感じるかもしれない。
だけれども、いのちの旅はそこでは終わらない。
自分を知るごとに、世界を味わうごとに、
そこには誰にも伝えられない何かがあることに気づく。
誰にも伝えることができないけれど、
それを表現する言葉を見つけられないけれど、
確かにそこにある自分にとっての真実。
保存することも、
意図して再現することもできないけれど、
確かにそこにあると感じることができるもの。
いのちとの深いつながりを取り戻したとき、
そんな感覚に出会うようになる。
自分にとっての真実は、
この世界の正しさや自分を取り巻くものとは
随分と違っているだろう。
生まれる場所を間違えたのだろうか、
とさえ思うかもしれない。
同じようにここが居場所ではないと感じている人と出会うことはあるけれど
究極的に同じ場所から来たのだと思えることはほとんどないだろう。
所属とつながりからくる安心感を微かに希求しながらも、
自分の中にある創造のエネルギーが求める広大な孤独を選ばずにはいられない。
それは、かつて夢見た「成功の姿」ではないかもしれない。
スクリーンの向こうに溢れる「輝く人生」とは違うかもしれない。
だけど、それこそが、いのちを生きるということだ。
今あなたがもし、
「ここは自分の星ではない」と感じているならば、
それは、いのちとのつながりを取り戻しているということだ。
いのちのふるさとと出会えるかは分からない。
それでも日々、内なる真実に気づくことができたなら、
いのちは、ふるさとの歌を奏で続けることができるだろう。
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