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2019.06.16 遅く起きた日曜日

154. 遅く起きた朝と狼狽する身体
155. 道を行く

154. 遅く起きた朝と狼狽する身体

中庭に広がる子どもたちの声に包まれてうたた寝をしていた。開け放ったベランダの扉の前に引いた薄いカーテンがふわりと舞い上がる。どのくらい寝ていたのだろうかとスマートフォンに手を伸ばすと時刻は17時に近づいていた。どうやら1時間くらい寝ていたらしい。ソファに横になったまま、聞こえてくる音とくるまったブランケットのあたたかさを味わっていた。

今日は昨日の時点での天気の予報に反して、天気の良い一日だった。寝室からベランダに続く扉の上に入っているガラスの部分から見える青空の眩しさに気づいたのは、8時半を過ぎた頃だった。昨晩は日本時間の朝のセッションだったのだが、その後いつにも増して目が冴えてしまい、やっとのこと眠気がやってきたのは4時にさしかかった頃だった。その前には「この時間まで起きていたのだからいっそのことこのまま起きてしまおうか」とも思ったが、前日に仮眠を多くとっていたわけでもなく、そのまま起きていても結局昼間に眠くなり生活のリズムがずれてしまいそうだったので、少しでも寝ることにした。

そして4時頃から8時すぎまで寝ていたのだが、その間はほぼ夢を見ていたように思う。随分と鮮明かつ、夢の中で夢であることに気づいている夢だったので、見ているそばから「今日は夢の内容を日記に書けるかもしれない」と思ったが、起き抜けにメモをしなかったせいか、目が冷めると夢はあっという間にどこかに行ってしまった。「夢の内容を日記に書けるかもしれない」と思ったこと自体も、夢だったのだろうか。そもそも夢を見ているときに認知する「意識」のようなものは、起きているときと同じ意識なのか、それとも違うものなのだろうか。

向かいの家ではお父さんと二人の男の子が食事をしている。その手前、庭の中央にあるガーデンハウスの屋根を黒猫が横切っていく。一家の隣の家では、白髪の老女が食事の支度をしているようだ。庭を横切ったと思った猫は、正面の木に登りふわんふわんと尻尾を左右に揺らしはじめた。木の幹の中程で、更に上に行こうかどうか考えているのだろうか。こちらにちょうど背中を向けているが、尻尾から様々な感覚(もしくは思考)がそこに生まれていることを想像する。木の頂上付近から二羽の鳩が飛び立ったと思ったら、猫が幹を駆け上がっていた。誰もいなくなった木の枝の合間からときおりひょろっと黒猫の尻尾が見える。そろりそろりと枝を歩き回っているようだ。今まで何度か木に登って降りられなくなった黒猫の様子を見てきたが、気づけばいつのまにか木から姿を消している。そしてまた、何事もなかったかのように、木に登る。

朝は眩しい青空を見ながら、だいぶ長いことまどろんでいた。まどろみというのはそもそも少しの時間うとうとすることを言うらしい。「長いこと意識と無意識のはざまをゆらゆらしていた」と言ったほうがいいだろうか。いい加減太陽も昇りきり、せっかく天気が良いのだから外に出ようかと起き出したのだが、これまでより体感温度が随分あたたかいこともあり、沸かしかけた湯を待ちきれなくなって、水をそのまま飲んだ。そして、カカオパウダーとヘンプパウダーと小麦若葉のパウダーにアマニ油を混ぜたものも続けて飲んだ。いつもならヨガをしながらココナッツオイルでオイルプリングをして口内環境を整えたところに白湯を飲み、そこから先ほどの飲み物を飲むところに、今日は「いい加減ベッドで長くゴロゴロしていて身体は起きているはずだから」と、いきなり先ほどの飲み物を摂取したのに加えて、お腹もすいていたことから「もう目覚めて3時間経ったようなものだ」との言い分を自分に言い聞かせつつ、バナナにカカオニブを混ぜて豆乳をかけたものを、食べるように飲んだ。勢いに任せて次々と飲み物や食べ物を摂ってしまった後悔はあっという間にやってきた。摂り込んだものと一体になれず体が困惑している様子がわかる。日記を書こうと書斎の机の前に座るも、どうも落ち着かない。体の中で過剰なエネルギーが渦になっていることを感じ、とりあえず外に出ることにした。2019.6.16 19:09 Den Haag

155. 道を行く

リュックサックに読みかけの本と手帳、無地のノートと薄手のストール、そして水を入れた水筒とリンゴを一つ入れた。天気予報では1時間後ににわか雨が降ることになっているけれど、空にそれらしい雲は見えない。多少濡れても大丈夫だろうと雨具や羽織ものは持たずに家を出る。玄関の扉を開け、手を広げ空気のあたたかさを感じていると道端に停まった車の運転席に座った男性と目があった。指で空を指し、微笑みかけてくる。「いい天気だね」というようなことを言っているのだろう。私も笑顔を返し、家の前の道を進む。

近くの小さな商店街の入り口近くにある老夫婦がやっているチーズ屋は今日は閉まっている。その二軒先の積まれた本が溢れそうな古本屋はそもそもいつ開いているのか分からない。小さなお菓子屋は今日も賑わい、アイス屋の前では年配の男性が座ってコーヒーを飲んでいた。グリーンがいっぱいのカフェからは人々の話し声が溢れでてきている。商店街の入り口である南側から通り全体に光が差し込み、道ゆく人を太陽が祝福していた。

商店街を抜けると、私の住む家とその周辺にも多くある3階建ての建物よりもひと回り4階建ての大きい建物が並ぶ静かな住宅街に出る。半地下のようなフロアもあるので正確には5階建てだろうか。そのまま進むと、さらに大きな一軒家のような家が並ぶ場所に出る。建物の中央には芝生に囲まれた池があり、池の横を犬と歩く人がいる。ポピーだろか、一輪の透き通ったオレンジ色の花が風に揺れていた。このあたりはトラムが通る場所からも距離があり、車の往来も数ないのでかなり静かだ。さらに進むといくつかの大使館の並ぶエリアに出る。自転車の人々と、トラムが通り過ぎていく。晴れた日、ハーグでは人々がこぞって北に向かう。北にはビーチがある。老若男女、自転車でも車でも。ビーチの近くのヨットハーバー周辺のレストランは、どこか南の島のビーチの近くかと思うくらい人でいっぱいになる。この国の人はいつもこんなにのんびり暮らしているのかとはじめは驚いたが、実際には思った以上に雨も多く、晴れて気持ちのいい日が貴重だということが分かってきた。特にこの時期は一週間のうち半分は雨が降り残りのうち半分も曇っているので、「せっかく晴れているのであれば外に出よう海に行こう」という気持ちになることが理解できる。

そのまま進むと、大きな道路にぶつかった。道路の中央に様々な国の旗が掲げてあるのは近くに国連機関の建物があるからから。地図で見て入ろうと思っていた公園のような場所にはどうやら入れないことが分かり、そのままその敷地の横を通り、緑の茂る別の公園の敷地に入ると、鳥の声が一気に大きくなった。澄んだ空気の中には土の匂いも混じる。前方からは子どもの声も聞こえてくる。サッカーをして遊んでいるらしい。森林公園という名のついたその場所は、木々の間にほどよい感覚があり、を光と風が抜けていく。小道を進んでいくと、モップのように毛の長い犬について中年の女性がやってきた。ゆっくりと歩く年配の男性の後ろからは、さらにゆっくりと歩く白い犬がついてくる。ぽっと開いた広場に置かれた木のテーブルの上に、食べ物を広げ始めている女性たちがいる。ギターケースのようなものを担いだ男性たちがベンチの近くに自転車を停める。

そんな風に木々の間を歩きながら、どこかにたどり着くことではなく、こうやって歩いていくことそのものが「道」なのだと思った。私は出かけるときに、ついついいろいろなものを持って出る癖がある。散々歩いて帰ってきて、結局持って歩いていたもののほとんどを使わなかったということに気づくことも多い。本や手帳、一つ一つは大した重さではないけれど、重なるとそれなりの重さにもなっている。道を行くときに本当に必要なのは自分の体と感じる心くらいで、あとはおなかがすいたときに小腹に入れるものくらいあれば十分なのだろう。だけどついつい、あれもこれも、こんなことをしようあんなことをしようと、色々なものを抱えてしまう。これまでの人生もそうやって、両手に色々なものを抱えてきた。本当は、その道すがら、見えないけれど手にするものがたくさんあっただろう。

舗装された小道には、木々の影が映っている。「こもれび」というのは、木々の間から漏れる光に名前をつけた日本人らしい感覚を反映している言葉だと言われるけれど、私たちが知らないだけできっと他の国の言葉でもきっとこれを示す言葉があるのではないか。光と影が織りなすゆらゆらとした美しい姿に、空から降りてくる言葉を捕まえて名前をつけたくなるのは自然なことのように思う。

歩き進めると車の音が近くなってきたので、元来た方に戻り、途中ベンチで少し休憩をし、また来た道を戻った。行くときは随分長く感じたが、帰りはその半分の時間もかからないように感じた。住宅地の中の池が見えるベンチでリンゴをかじり、家まで帰ってきた。日が当たるところは暑いくらいだが、日陰は肌寒い。外に出るとなんだかんだ割とすぐに家に帰りたくなるのは日本より湿気が少なく、思ったより体が冷えるからかもしれない。

中庭からキャーともヒャーともつかない子どもたちの声が聞こえてくる。そういえば家を出る前にベランダに出たときに、はす向かいの家の3階部分で、男性が手すりを拭いているのが見えた。このあたりの住宅はおそらく築50年くらいは経っているのではないかと思われるが、そう古びている感じはしない。街を歩くといつもどこかの家がペンキを塗り直している。住む人たちがそのときどきに手入れをしてきたのだろう。私も此処に住まわせてもらっている間、せめてこぎれいに掃除をし、風を通していけたらと思う。2019.6.16 20:06 Den Haag

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