他者を通して広がる世界

 先日、親戚数人で地元の居酒屋へ行った。平日の夜で田舎の町に人けはない。店はテーブルと座席が二つずつ、あとはカウンターに数席あるだけでこぢんまりとしている。私たちはテーブル席に通された。カウンターに常連らしき中高年の男性が数人座っている。

 しばらくすると、若い男女のグループが来店した。私たちの脇を過ぎて、奥の座敷に入って行く。また少し経つと幼い子を連れた夫婦がやって来て、背後のテーブルに座った。あっという間に店は満席になり、にぎやかな話し声が響き渡る。

 私は驚いていた。客の半分以上が20代、30代なのだ。この人たちはどこからやって来たのか? 人口が減り続けているこの地域で、若者の集まりを見るのは随分意外な気がした。

 しかし私はこの町に住んでいるものの、普段は隣市の職場で働いているし、休日は大抵一歩も家から出ないか市外に出るかのどちらかだ。他の住民のことなど何も知らないに等しい。

 食事を終えた客たちが、1人、2人と店を出ていく。彼らにも帰る場所があるのだ。同じ町で過ごしていても、私と彼らの見ている景色は全く違うだろう。私は目の前で食事をしている親戚の顔を眺める。この人のことだって少しは知っているつもりだが、普段何を見て何を考えているのかは分からない。では両親のことはどうか? 友人や恋人については? 私は思い浮かべて首を振る。

 他の人が過ごす日常とは、私の想像を超えたものだ。その喜びや悲しみを語ってくれたとしても、きっと私は半分も理解できない。しかし理解できないからこそ、その語りに耳を傾けたいと思う。

 言葉は不鮮明で聞き取りにくく、むしろ言葉ですらない場合もある。聞くのには骨が折れるし、聞きたくないときもある。けれど他者を通してしか知ることのできない世界は、その理解が半分にも及ばなくてもなお、私の視野を広げる力強さを持っている。そして自分の生きる世界の狭さを教えてくれるのだ。

 私は何も知らない−−−−それは愚かなことでもあるし、まだ世界は広がり得るということでもある。私は騒がしい店内を見渡し、反響する声を聞こうと耳を澄ますのだった。

(2019年5月19日 徳島新聞朝刊掲載)

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