見出し画像

2023.2.24「誇らしくなった話」

こんにちは。

久しぶりに書きたい出来事があったので、note更新。

ちなみにボクシングは関係あるようであまり関係ないです。


気温0度、まだ薄暗い冬場の朝6時。眠い目を擦りながら集まってきた小学生との思い出。

話は2015年まで遡ります。

大学を卒業して就職した社会人1年目、入社後すぐに椎間板ヘルニアを発症しました。症状はどんどん悪化していき寝たきりになり、2度の入院生活、最終的に手術による治療を選択。結果的にボクシングの競技復帰には10ヶ月程のブランクをつくりました。

就職したばかりの会社にも長期休みをもらって大きな迷惑をかけたし、仕事との両立もままならない、うだつの上がらない4回戦プロボクサーだったこともあり、このまま競技引退へのフェードアウトも考えていました。

そんなとき、ある方が居酒屋の飲み会の席で僕にこんな声を掛けました。


「来たい時だけ来て、子どもたちとボール蹴って好き勝手楽しんでさ。頼むよ、中途半端にしないで子どもたちをちゃんとみてやってくれよ!」


一字一句正確に覚えてはいないのですが、「お願いします」という懇願ではなく、煮え切らない若者に向けた憤怒という感じだったと思います。

大学生の時、自分が小学生のとき所属してた少年サッカー団でボランティアのコーチをしていました。

担当してた学年の子たちの卒業と共に自分の大学卒業が重なったことによる燃え尽き症候群と、仕事やプロボクサー活動でなかなか時間も取れず、就職してからは籍だけ残していて宙ぶらりんになってる感じでした。

僕に怒ってくれたお父さんコーチへの罪滅ぼしの気持ちもあったと思います。
椎間板ヘルニアの影響でボクシングの練習ができず、時間を持て余してたタイミングだったこともあり、その翌週から、また少年サッカーに顔を出すようになりました。

たぶん僕は、あのとき「希望ヶ丘ライオンズ」のコーチをすることで救われていた。社会の荒波に揉まれて挫折し、自分の夢を諦めようとしてた僕は、子どもたちとサッカーをすることで救われていた。


そして、椎間板ヘルニアが完治した翌年2016年。
諦めて引退する前に、最後にもう一度新人王戦に出て、新人王になれなかったらボクシングを辞めようと決意します。

ライオンズも中途半端にはしない。担当してた小学生たちは最終学年の6年生になりました。接客業でシフト制の仕事ではあったけど、なんとか土日のどちらかは毎週のように休みをもらい、できる限りライオンズに参加して、ボクシングとライオンズと仕事のすべてを自分なりにしっかりやりきろうとしました。

1年半ぶりの試合、2年半ぶりの勝利となった2016年5月の東日本新人王戦初戦、何人かの小学生とそのお父さんお母さんが応援に駆け付けてくれました。
初めて自分のパンツスポンサーになってくださった方々は、みんなライオンズの子どもたちの親御さん方でした。上述した、怒号混じりで僕をライオンズに口説いた方もそのひとりです。


2回戦も勝ち進み、夏が過ぎた頃。
その頃の僕は、週2~3回、朝6時からロードワークをして、仕事して、夜ジムワークして、夜23時頃に帰宅という生活スタイルで過ごしていました。

きっかけは覚えていませんが、僕のロードワークに4人のライオンズの子どもたちが参加するようになり、それは彼らが小学校を卒業する2017年3月まで続きました。

はじめたばかりの秋頃はまだよかったですが、冬場の朝6時はまだ薄暗く、気温は氷点下を計測する日もあったかなりの寒さの中、眠い目を擦って参加してくる小学生たち。

新人王になる為に1周2km弱の運転免許センター周りを走る僕は、小学生の彼らにスピードを合わせることはありませんでした。ただただ走って、解散。
でも、さすがに走るだけでは申し訳ないなと思って、ボールを持ってきてサッカーの練習をする日もありました。

小学校卒業前、彼ら4人で小学生の駅伝大会に参加して、かなりの好成績を収めたと記憶してます。その年全日本新人王になったプロボクサーにくっ付いてくる小学生ですからね。そりゃあ半年も経った頃には周りの小学生より走るのが速くなってるはずです。

東日本新人王決勝戦、全日本新人王決定戦には僕が担当してた希望ヶ丘ライオンズの子どもたちとそのお父さんお母さん、約50人がそれぞれ応援に駆け付けてくれました。

試合はどちらもフルラウンドを闘い、判定2‐1,判定2-0の接戦を制しての全日本新人王戴冠でした。
断言できます。子どもたちが観に来てくれてなかったら、僕は新人王になれてなかった。

いつも厳しい口調で偉そうに指導してる子どもたちの前で、絶対に負けられなかった。勝負を諦めることができなかった。カッコいい背中を見せたかった。

朝ロードワークで、もちろん一度も抜かれたことはありませんでしたが、卒業前の最後の方は余裕がなくなっていました。
それでも、子どもたちに前は絶対に譲らない。時に歯を食い縛って必死の形相をしていた時もあったかもしれませんが、うしろを走る子どもたちには僕の背中しか見えない。ランニングが終わって彼らの方に振り向くときは「まだまだ余裕だよ。」と言わんばかりの涼しい顔をみせるのが僕の美学でした。

全日本新人王になった翌日もライオンズに行きました。

「おめでとうございます!」という子どもたちからの祝福に対して、左目上に大きな絆創膏を貼りながら、「ありがとう。近い将来チャンピオンになるんだから、新人王くらい通過点だよ。」と話していたと思います。


こんな日が来るなんて。

あれから6年。たまに電車の中で会うことはあったけど、彼らと連絡をとることはありませんでした。コロナもあって、彼らの試合を観戦にいくこともほとんどできませんでした。

彼ら同士でもあまり連絡はとってなかったみたいです。思い返せば僕もそうでした。小学校からの幼なじみとは高校時代、お互いに自分のことでいっぱいいっぱいで、連絡をとったり休みの日に遊ぶということもほとんどありませんでした。
大学生になって、成人式での再会をきっかけに、また盛んに地元の友達と交流するようになりました。


まず、4人の中のひとりの子のお父さんでもあった、僕を怒号混じりでライオンズに口説いた方と連絡して、息子が「○○大学でプロを目指してサッカーを続ける」ということを知ります。

その2,3日後、一緒にライオンズのコーチをしてた友達から「ラインのニュース」という文章と1枚のスクリーンショットの画像が送られてきました。

画像は上に「○○大学2023年度新入部員予定選手」と書いてあり、その新入部員予定選手の一覧の中の2人の名前に写真編集で施したマーカーが塗られていて、4人の中の2人の子でした。

希望ヶ丘ライオンズは、50年以上の歴史があるけど、Jリーガーをたくさん輩出してるような名門でもなければ、最近はいわゆる「クラブチーム」の勢いに押されて、ひと昔前と比べて衰退を辿っている活動が土日祝だけの街のサッカー少年団です。

強いと言われていた代であっても大学まで第一線でサッカーを続ける子は学年で1人2人いるかどうか。自分の代もそうでした。
それが、今知っているだけでも自分が担当した学年から3人の子が大学でも第一線でサッカーを続ける。

僕がボクサーになったように、別に子どもたちには絶対にサッカーを続けてほしいとは思っていないし、卒業後何をしてくれてもいいんです。
それでもサッカーを続けてくれるっていうのは、あの頃が楽しかったというわかりやすい指標になるし、あの朝練を一緒にしていた4人の子の中からの3人だと思うと、嬉しいような、誇らしいような、今まで感じたことのないそんな感情が湧き起こってきました。


僕は、ライオンズで関わった子どもたちの卒業後、基本的に彼らが高校を卒業するまではSNSのフォローも返さないし、自分から連絡することもありません。

コーチと選手の関係ではなく、社会人としてひとりの先輩後輩の関係性になれるタイミングになったらプライベートで関わるようにしています。

彼らの連絡先を集めて「高校生活お疲れ様。予定空いてるときみんなでご飯行こうよ」とグループLINEに入れると、すぐ翌日に彼ら3人と僕にLINEをくれた友達と5人で焼肉に行くことが決まりました。こんな日が来るなんて。それは思っていたより突然やってきました。


4時間程の時間でしたが、くだらない思い出話ばかりで、何を話したかは正直よく思い出せません。でも、

「大学でもサッカーを続けてプロを目指します。」
「大学で好きなサッカーをやりきりたいです。」

それぞれのその一言だけは、覚えています。

お会計で人の分のお金を出すのがこんなに嬉しかったことはなかったかもしれません。目上の人に対する言葉遣いや彼らのひとつひとつの言動が立派すぎて、自分もちゃんとしないとなと思わされました。


今が楽しいのは数年前に自分ががんばっていた結果。でもこのまま上手くいくわけじゃない。数年後も上手くいってるかは今がんばれるかどうか。


まぁ、今日はそんな話でした。
では、アディオス。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?