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「狐と祭りと遊び上手と。」第十一話

 *―――**―――**―――*

 一方その頃、きつね町では。
 町の南を発生源とし、大規模な火災が起こっていた。燃え盛る炎と真っ黒な煙。町並みは火の海と化し、長屋や蔵が次々と燃え上がっていく。
 風が炎を煽るたびに火は猛烈な勢いで広がり、周囲の建物や木々、町民達を脅かした。火の勢いは人々を圧倒し、避難することもままならず、多くの妖怪たちが逃げ惑っている。

「空狐様ぁ、この火、消えませんよぉ!? どうしましょうどうしましょう!」

 急遽町の火を消すため外に駆り出された気狐が叫ぶ。空狐は黒煙に染まる町の有様に呆然とした。
 妖力を用いても消せぬ炎。犯人は超常的な力を持つ存在――陰陽師だろう。

(やられた)

 空狐の手の中には古びた藁人形がある。
 今朝屋敷で見た小珠は小珠ではなかった。陰陽師の用意した、小珠を模倣した藁人形だ。
 おそらく陰陽師達は、狐の一族がすぐに玉藻前の捜索を始めることができぬよう、時間稼ぎのために町を火の海にしたのだろう。確かにこのような状態にされてしまっては、妖狐の一族もきつね町のことで手一杯になる。

(小珠様はどこにいる?)

 焦って頭の回転が鈍っているのを感じる。
 このままではきつね町が全焼するかもしれないというのに、目の前の事態よりも小珠の顔が何度も頭にちらつき、明確な指示が口から出てこない。

「空狐様、どうします!?」

 気狐と野狐が空狐の指示を待っている。天狐は高齢のため屋敷から動けない。この事態を収束するためには空狐の命令が必要だ。
 しかしどうにも冷静になりきれない。小珠のことはキヨに託されている。今すぐにでも捜しに行きたい。けれどその前に目の前の火事をどうにかしなければならない。同時には無理だ。それに、捜すと言ってもどうやって――。

 その時、屋敷の方から二口女が息を荒げながら走ってきた。着物を着ていると走りづらかったのか、ほぼ裸同然の格好だ。
 二口女は空狐を視界に入れるなり勢いよくその体に突っ込む。

「これを手がかりに小珠を捜して」

 二口女の手の中には、乾いた血が付着した短刀がある。

「……これは?」
「小珠の血よ。あんた達なら血から捜せるでしょう」

 昨夜のことをいくら聞いても口を割らなかった二口女が、険しい表情で呟く。

「小珠様が血を流す状態にあったと?」
「急所を避けてわたしが切った。何度も」

 二口女の堂々とした回答に場の空気がぴりついた。気狐と野狐も眉を寄せて二口女を凝視する。

「狐の一族の花嫁に危害を加えたということは、それ相応の覚悟がおありで?」

 空狐が怒りを押し殺しながら低い声で問いかけると、二口女はかたかたと手を震わせた。顔は怯えていないように見えるが、このことを打ち明けるのには内心物凄く勇気が必要だっただろう。

「どんな罰でも受けるわ」

 覚悟を決めたように見据えてくる二口女。
 殺そうと思った。低級な妖怪など、空狐であれば一瞬で殺せる。息をするよりも容易い。一度小珠に危害を加えた危険因子をきつね町に置いておくわけにはいかない。
 しかし――空狐は、殺そうと伸ばした手を途中で止めた。代わりに二口女の手から短刀を引き抜く。

「貴女への処罰は全てを終わらせた後、小珠様もいる中で行います」

 今はこんなことをしている場合ではない。
 二口女は呆気にとられたように口をぽかんと開け、「どうして……」と細い声を出す。

「小珠様の祖母が昨夜から危篤なのですよ。彼女はそのことで酷く心を痛めています」
「……それがわたしを殺さないことと何の関係があるのよ」
「貴女を殺してもきっと小珠様は悲しむと思いました。これ以上彼女の心に追い打ちをかけたくはない」

 それに、事情を聞かずに罰するなど、まるでかつての玉藻前だ。
 小珠に変えると約束した。もう一度、妖狐の一族を町の妖怪達から信頼を置かれる一族にしてみせる。そのためにはむやみに妖怪を殺害するべきではない。

「野狐、その女を捕らえてください」

 空狐が命じると、即座に野狐が二口女を拘束する。二口女は抵抗を見せず、ただ泣きそうな顔をした。

「気狐は町の妖怪の川への避難誘導をお願いします。野狐は火の発生源を探ってください。これだけの火災を起こせる呪術……何かしら元となる媒体があるはずです。それを消してしまえば火も消せるようになるはず」
「小珠ちゃんのことはどうするのですか?」
「金狐と銀狐が今朝からきつね町の外へ出かけています。彼らに頼みましょう」

 空狐は気狐にそう言って、連絡用の紙人形を用意して飛ばした。
 小珠を見つけるための手がかりができたことでいくらか冷静になれた。今はただ、目の前のことに集中する。
 金狐と銀狐のことは信頼している。銀狐も普段はへらへらしているがやる時はやる男だ。必ず小珠を連れ帰ってくるだろう――そう期待し、火の元が他にもないかと確認するため飛び立った。

 *―――**―――**―――*

 毎日通っていた市が燃えている。火に囲まれて逃げ場がない。妖怪たちが走り回っている。河童など服の先に火が移り、「あちっあちっ」と飛び跳ねている。
 からかさ小僧はどうすることもできず、その様子を呆然と眺めた。

(もう終わりでい……)

 この勢いではきっと、住んでいる長屋も燃えている。これまでは火災が起これど妖怪の間で強力してすぐに消していた。火を押さえきれなくなったのは初めてだ。
 思い出の詰まった故郷が消えていく――そんな絶望感に苛まれた。

「すみませぇん! 風で通り道を作るのでぇ、そこから抜けてください!」

 その時、どこからかやってきた気狐が空中から妖怪たちに叫んだ。
 市にいた妖怪達は驚いたように気狐を見上げた。気狐が妖力で風を起こし、火を退かすが、誰もその道を通ろうとはしない。

「ちょ、ちょっとぉ! 通ってくださいよ! 風を起こし続けるのも大変なんですからね!?」

「……いや……だめだお前ら! 騙されんな!」
「そ、そうだそうだ! 狐の一族のことなんて信じちゃなんねえ!」
「そもそも、この火事を起こしたのもお狐様たちなんじゃないか!? だっておかしいだろ、この勢い! 全然消えねぇし! こんなことできるのお狐様くらいだろ!」

 妖怪たちの叫びに、気狐がぎょっとしたような顔をする。

「言いがかりはやめてくださぁい! こっちは貴方たちを助けようと……」

「妖狐の一族が俺等のために動くわけねーだろ! もうずっと悪政を敷いてきたくせに、今更好感度稼ぎか!? この火事だって自作自演だろ! さっさと火を止めろよ!」
「そうだそうだ!」

 妖怪たちの反論は止まらない。
 つい最近まで妖狐の一族が作った餅を模倣したものを食べてきつね餅だと言ってはしゃいでいたというのに、非常事態となるとやはり妖狐に対する不信感が湧いてくるらしい。
 からかさ小僧は悲しい気持ちになった。
 からかさ小僧も、最初は妖狐の一族に良い印象は抱いていなかった。しかし実際に話してみて、現在の狐の一族への印象はただの先入観に過ぎないことに気付いた。
 確かに妖狐の一族は過去に悪政を敷いていた。しかし今は変わろうとしている。そしてそれを知る者は数少ない。

(おれがちゃんと言わなきゃ)

 からかさ小僧は自身の体を勢いよく開いた。

「聞いてくれ皆! 小珠も妖狐だ!」

 からかさ小僧が傘の身を開くことは滅多にないので、注目が集まる。

「は……はあ? 小珠ちゃんが?」
「小珠って、あの野菜売りの?」

 ひそひそと妖怪たちが話し始める。

「俺、小珠ちゃんの野菜食ってたぞ」
「でもそう言われてみれば世間知らず過ぎて変だなって思うことが何度か……」
「私、小珠さんに落とし物を探してもらったことがあるわ! 妖狐の一族なのに、そんなことする? あんな立派なお屋敷に住んでおいて、私みたいな低級妖怪と話してくれるはずない」
「でも、そういえば持ってた小物が妙に上等だったような……」
「小珠の隣にいた天狗たち、以前から何者だって噂されてたわよね。天狗の一族も知らないって言ってたの。……もしかして、変化したお狐様だったの?」
「そんなまさか。お狐様が何のために毎日市に?」

 まだ半信半疑らしい。だがもう一押しだ。
 からかさ小僧は続けて言う。

「小珠は、妖狐の一族は、町を変えるためにおれ達のことを知ろうとしたんでい」
「…………」
「妖狐の一族は、おれ達を恐怖で押さえつけたことを反省してる」
「…………」
「でも、おれ達はどうだよ? お狐様たちのこと、知ろうともしてねえ」

 場に沈黙が流れる。
 妖怪たちの表情が変わり始めた。

 そして、誰よりも早く気狐の作った道を走っていったのは河童だった。

「僕は先に行くよ! 小珠嬢ちゃんのことは信じてるからねっ」

 あっという間に見えなくなった河童の背中を追うように、他の妖怪たちも走り始める。

「お……俺も行く!」
「あたしも行くわ!」
「このままここにいたって焼かれ死ぬだけだしな!」

 妖怪たちは意地を張っていただけの部分もあるようで、次々と気狐の作った道を通っていく。空中の気狐がほっとしたように溜め息を吐いた。
 全員が逃げた後、最後にからかさ小僧もその道を通る。その時、気狐がふふっと蠱惑的に笑った。

「貴方、なかなかいい男じゃないですかぁ。今度お茶でもしませーん?」
「な、な、な、なんでい! からかうのはやめろい!」
「あらあら、照れ屋さんなところも可愛いわぁ~お顔が真っ赤ですよぉ~?」

 うふふ~と色目を使ってくるので、からかさ小僧は慌てて走る速度を上げた。

 *―――**―――**―――* *―――**―――**―――*

 港町にいる銀狐たちの元に紙人形による知らせが届いたのは昼過ぎだった。
 小珠の血が付着した紙人形だ。妖狐は、血や髪の毛など体の一部さえあれば、仲間の居場所を見つけられる能力を持つ。

「……近いな」

 小珠の気配をすぐ傍に感じる。
 海坊主が住んでいたとされる家屋の近くだ。

「待て」

 金狐が、すぐに行こうとした銀狐の肩を掴んで引き止めてくる。

「相手の人数も分からんのに突っ込む気か。阿呆ちゃうか」
「人数把握とか悠長なこと言うとる場合ちゃうやろ。あいつらは玉藻前様をさらった連中の末裔や。人間とは思えん鬼畜や。小珠はんに何するか――」
「落ち着け。小珠はんは玉藻前様ちゃう。小珠はんと玉藻前様を同一視しすぎちゃうか? 今は玉藻前様のいた時代やないし、陰陽師の力も弱まっとる。あん時とは何もかもが違う」

 金狐の言葉に銀狐ははっとした。そして、苦い思いをしながら言う。

「……分かっとる。小珠はんは玉藻前様やない」

 幼い頃の記憶。玉藻前は花のようによく笑う女の子だった。
 誘拐され――ようやく居場所を突き止め回収した頃には、玉藻前の風貌は随分と変わってしまっていた。美しいのに変わらない。しかし、顔つきというのか、雰囲気というのか、まるでさらわれる前とは別人のようだった。
 あの時の玉藻前の憎らしそうな顔を、他者への恨みに満ちた顔を、銀狐は二度と忘れないだろう。

「でも、俺は俺の後悔の回収をしたい」

 同じ過ちは犯さない。

(今度こそ守らなあかん)

 銀狐が走り出すと、「あっ、おい!」と金狐が怒鳴った。
 しかし銀狐は止まらなかった。

(小さな小さな、お姫さん)

 思い出すのは千年以上前、玉藻前の手を引いて外へ出たあの時のことだ。

(俺のお姫さん)

 もう二度と戻ってこない初恋の笑顔。
 前世で守りきれなかった彼女を今世では守りきるために、銀狐はここにいる。

 *―――**―――**―――*

「うおおおおおおおおーっ!」

 その頃――小珠は血塗れの姿で何とか膝立ちし、法眼に頭突きをしていた。
 さすがにこの反撃は予想していなかったのか、法眼は均衡を崩してぐらりと後ろに倒れる。
 その隙に逃げようと入り口に向かって走った。

「待て!」
「待たないよ! 待てって言われて待つ人がどこにいるの! 私こんなことしてる場合じゃないの! 早くおばあちゃんの元に戻らないと……!」

 もしかしたら、こうしているうちにキヨの意識が戻っているかもしれない。今呼びかけたら応えてくれるかもしれない。キヨの最期に一緒にいられないのは嫌だ。
 歯で取っ手を噛んで扉を開こうとしたが、錠をかけられているのかびくともしない。
 すると、後ろの法眼がおかしそうに笑った。

「その戸は俺にしか開けられない。諦めるんだな」

 愉しげに髪をかき上げながら、ゆらりゆらりと近付いてくる。

「じゃあ開けて」
「獲物をみすみす逃がすかよ」
「そんなに私の力が欲しいなら、後でいくらでも利用させてあげる。でも今はだめなの」

 そう言った時、ふと違和感を覚えた。血が流れていない。切りつけられた傷が治っている。さっき頭突きをした時からだ。

「なんだ、できてるじゃないか。玉藻前より優秀なんじゃないか?」

 法眼がにやりと笑った。

「続きだ」

 振り上げられた手の中には、短刀がある。
 また刺される――と思いぎゅっと目を瞑った。
 しかし、予測していた痛みはない。おそるおそる目を開くと、短刀が勢いよく弾かれたように床にからからと落ちていた。

「……?」
「っははは! 早いな。妖力で危険を弾いたか。普通の刀ではもう効かないようだ。倉から呪具を持ってこよう」

 法眼の口ぶりからして、刀を弾いたのは小珠の力らしい。完全に無意識だったので実感が湧かない。

「お前、面白いじゃないか。痛めつけがいがあるな」

 法眼が小珠の頬を手で掴んで笑みを深める。その不気味さにぞっとした。

 ――次の瞬間、物凄い音がして、小珠の背後の戸が蹴破られた。
 驚いて振り返った刹那、顔面に戸が倒れてくる。小珠は下敷きになるようにして床に倒れた。

「小珠はん、無事か!?」

 上から銀狐の声が聞こえる。来てくれたのか、とほっとした。しかし、銀狐が足を退けてくれなければ戸の下から出れない状態だ。
 寸前で避けたらしい法眼が不機嫌そうに問いかける。

「お前……見張りはどうした?」
「全部倒したりましたよ、あんなもん」

 気怠げな金狐の声も聞こえた。
 ずるずると戸の下から這い出た小珠に、銀狐が駆け寄る。

「小珠はん、生きとって良かったわ。怪我ないか?」
「怪我は……あったんですけど、治っちゃいました」

 どちらかと言うと、銀狐が蹴破った戸がぶつかったのが痛かった……とは言えず、へらりと笑って答える。
 銀狐は心底ほっとしたような顔をし、妖力で小珠の手足を縛る縄を解いた。続けて小珠を抱きかかえようとするので、小珠は慌てて自分の足で立ち上がる。

「自分で歩けます」

 銀狐は一瞬きょとんとした後、「たくまし」と可笑しそうに笑った。
 小珠は倒れた戸を踏んで外へ出る前に、法眼を振り返った。金狐が法眼に炎を浴びせている。この容赦の無さは、おそらく殺そうとしているのだろう。

「金狐さん、殺さないでください」
「はぁ!? 何言っとるんですか! こいつらは妖怪の敵ですよ!?」

 金狐が苛立ったように返事する。

「我が儘言ってごめんなさい。でも、殺すのではなく捕まえてほしいです」

 炎を呪符で打ち消している法眼が驚いたように目を見開いた。

「かつて人間と妖怪は共存していたんですよね。陰陽師と妖怪だって、考えを改めてもらえれば共存する方法はあるのではないかと思います」
「ッどこまでお人好しなんですか、うちの花嫁さんは!」

 金狐は攻撃をやめ、法眼に物理的に蹴りかかって動きを封じた。そして、先程まで小珠を縛っていた縄で法眼を縛り上げる。

「……ありがとうございます」

 駄目元の頼みであり、本当に実行してくれるとは思っていなかったので少し驚く。

「金狐、何やかんや小珠はんに甘ない?」
「うるさいなぁ、黙っとけ、銀狐」

 金狐がにやにやしている銀狐を睨み付ける。
 小珠は縛られている法眼の前に屈んで目線を合わせた。

「法眼さん、少しお話してくれますか?」
「……何だよ。俺を生かす意味が分からねぇ。あんなに刺したのにけろっとしてんじゃねえよ」
「貴方を殺すだけでは根本的な解決にはならないと考えたんです。さっき金狐さんと戦って、どちらが強いと思いましたか?」
「……悔しいが、今の陰陽師じゃ妖狐には勝てねぇ。玉藻前さえ……玉藻前の妖力さえあれば。また、強い妖怪を倒せる程の一族になれるってのに」
「貴方は一族が誇りを取り戻すことを望んでいるんですよね?」
「俺だけじゃねえ。陰陽師の末裔は皆それを望んでる。日本帝國は今開国して、外国の文化を取り入れて、日本帝國に昔からある呪術は衰える一方だ。このままじゃ、いずれ陰陽師の存在も忘れられる……俺はそんなの、」
「なら、協力します」

 隣の金狐が「小珠はん?」とぎょっとしたような顔をした。

「ただし、今回のような強引で暴力的な方法はやめてください。口で交渉してくださるなら、少しずつでよければ私の妖力くらいあげます。私も頑張って妖力をうまく扱えるように努力するので、気長に待っていてください」
「……お前……何でそこまで……」

 法眼が疑わしげな目を向けてきたため、小珠もそういえば何故なのだろうと考える。
 小珠の中には、〝困っている人がいたら手を差し伸べなければならない〟という感覚がある。それは昔からのことだ。一体この感覚はどこで培われたのだろう――と記憶を遡った時、その答えはすぐに見つけられた。

「助け合いが中心の村に住んでいたので」

 協力しなければ生きていけないあの村で、少なからず学んだのは、助け合いの精神だったに違いない。


 ◆

 ごおごおと炎が燃え上がっている。辺り一面火の海で、店も家屋も何一つ元の形を保っていない。妖怪たちの悲鳴と、何かが倒壊する音が立て続けに聞こえてくる。煙も気分が悪くなる程広がっている。辛うじて無事なのは、町の中心にある大木、瑠狐花の木くらいだ。
 銀狐たちからきつね町の状況を聞き、駆けつけた小珠は、目の前に広がる光景を見て絶句した。隣で銀狐がちっと舌打ちをする。

「俺、やっぱあいつのこと許されへんのやけど。今からでも殺さへん? 玉藻前様にされたこともあるし、一族根絶やしにしたっても構わんのに」
「あの人は、玉藻前様を陥れた人達の末裔であって、陥れた本人ではありません。あの人への罰は後で考えましょう。今は、この火を消さないと……」

「――妖力で生み出した水であれば消せる」

 後ろで、縛られた状態で金狐に捕まえられている法眼が言った。

「妖力で生み出した水?」
「水を生み出す妖怪を見つければええっちゅうことか?……つっても、雨降り小僧はもうお年やし……」

 銀狐が考えるような素振りをした。

「――金狐様、銀狐様!」

 その時、空から気狐が一体飛んでくる。

「大変です。屋敷まで燃えています」
「屋敷が? んなわけないやろ」
「普通の火なら移らないはずなのですが、呪術が関わると違うようで……」

 気狐はそこまで言って小珠に視線を移し、言いづらそうに伝えてきた。

「キヨさんのこと、急いで移動させたのですが、既にかなり煙を吸っていて……その……もう長くないかと……」

 周囲は燃え盛っていて暑いはずなのに、身体全体が冷える心地がした。頭から水を浴びたような気持ちだ。
 ぽろぽろと涙が流れる。泣いている場合ではないのに、意思とは反して目から水が止まらない。
 その様子を見た気狐が急に表情を変え、小珠のことを抱きかかえて地を蹴った。

「おい、どこ連れていくねん!」
「キヨさんの所へ連れていきまぁす! まだ間に合うかもしれません!」

 銀狐が怒鳴ったが、そんなことはお構いなしに、気狐は宙へと浮かび上がる。港町へ向かった時よりも速く、煙を避けながら屋敷へと向かってくれた。
 屋敷には確かに火が乗り移っており、庭にあった木々も燃えている。唯一まだ残っている屋敷の一角――天狐の傍で、沢山の気狐や野狐が風を起こしてキヨのことを火から守っていた。
 キヨの息の仕方は昨夜と同じだ。それどころか、煙のせいで酷くなっているように見える。頭が真っ白になった。

「お……おばあちゃん」

 気狐に降ろしてもらい、キヨの痩せ細った手を手で掴む。
 ぜえ、ぜえ、と息をするキヨは苦しそうだ。こんなに苦しい思いをさせるくらいなら、安らかに眠った方がキヨのためかもしれない。それでも――生きてほしいという気持ちを捨てきれない。小珠の隣で元気に畑仕事をするキヨは、絶対にもう戻ってこないのに。

「小珠ちゃん……いつの間にそんな妖力を扱えるように……」

 後ろで見守ってくれていた気狐が、はっとしたように呟く。気付けば、周囲にぽうぽうと暖かい光のようなものが生じていた。
 その時、ゆっくりとキヨが目を開けた。薄く開かれたままどこを見ているかも分からなかったキヨの眼が、小珠を捉える。

「お逃げ。小珠」

 しわがれた声で、キヨが言う。
 小珠は涙を堪え、ふるふると強く首を横に振った。

「ここはもう長くない。老体は置いていきなさい」
「いやだ、」
「お前には未来があるんだよ。わしにはもうない。小珠。置いていきなさい」
「おばあちゃんっ……!!」
「わしはもう十分生きた。最後に小珠とまた畑仕事ができて、働けて、十分すぎるくらいだ」

 キヨはそこまで言うと、小珠から天狐へと視線を移す。

「天狐。お前、生贄があればまだここから動けるんじゃろう。わしの命と引き換えに、この子をどこかへやっとくれ」
「おばあちゃん! 何言ってるの!」
「お前には寿命が見えるはずだ。人の寿命も、妖怪の寿命も。わしにも分かる。今は小珠の妖力で意識が戻ったが、これもあと数分というところ。わしの寿命は、今日じゃろう。さあ、早くしておくれ」
『…………』

 天狐は黙ってキヨを見下ろす。
 否定しないということは、実際にそうなのだろう。

「天からずっと見ているよ。小珠の信じる道を進んでくれ」

 キヨの意識が遠ざかっていくのを感じた。
 その目が虚ろになっていく。
 嫌でも分かった。もう、時間切れだと。

 ――……最後に伝えるとすれば、何だろう。

「今までありがとう。ずっと大好きだよ」

 気付けば口からそんな言葉が漏れていた。
 伝わったかは分からない。でも、キヨの口角が最期に少しだけ上がった気がした。

 ――――次の瞬間、天狐が天井を突き破り、空へと舞い上がった。
 そのふさふさの白い毛の中に、小珠、気狐、野狐を全員乗せて空高く。

 上から眺めれば、火や煙の位置が一目で分かる。
 逃げ惑う妖怪たちが遥か下に小さく見えた。

――……『小珠の信じる道を……』

 最期にキヨに言われたことを思い出し、ぎゅっと目を瞑る。

(泣いてる場合じゃない)

 キヨが素敵だと言っていたこの町を、守らなければ。

 ◆

 真っ白い空間に沢山の石が転がっている。その空間の中心であろう場所、赤い椅子の上に、十二単を身に纏った玉藻前が縛り付けられている。

「力を貸してください」

 どこを向いているのか分からない、虚ろな目をした絶世の美女に、土下座してそう頼み込む。

「愉快だ」

 玉藻前は小珠に一つも視線をくれずに言った。

「愉快だ、愉快だ。嗚呼、素晴らしい。これこそが麻呂の望んだ破壊じゃ。妖怪たちの悲鳴、男たちの悲鳴――嗚呼、なんて魅惑的な声じゃ。これこそが麻呂の望んだ時代じゃ」

 あは、あはは、と狂ったように空に向かって力なく笑った玉藻前は、不意にその笑みを顔面から消した。

「それなのに――何故、麻呂は泣いておる?」

 つー……と、玉藻前の頬に涙が伝っていた。
 小珠は立ち上がり、玉藻前に正面から近付く。ここまで近付いたのは初めてだ。ずっと玉藻前が怖かった。でも今は怖くない。彼女のことが分かるからだ。

「他者を憎み続けるのは苦しかったでしょう」

 玉藻前の白い頬に触れた。その肌は白く、とても冷たい。石のような冷たさだ。

「貴女も、きっと許したかったんですよね」

 石が割れるように、玉藻前の頬にひびが入る。

「きつね町を一緒に守ってくれませんか。私の中で」
「麻呂が……? 守る? 守り方など、疾うに忘れたというのに。麻呂は壊し方しか知らん」
「知らなくてもこれから学べばいい。傷ついた心が分かるのならば、他者に優しくするべきです」

 そう言った時、玉藻前が瓦解していく。

「小珠。麻呂は真っ直ぐなそなたが羨ましかった」
「はい」
「だが、麻呂はそなたになれるのだな」
「はい」
「もしもやり直せるのなら――今度こそ妖怪の長として、正しく彼らを導きたい」

 その言葉を最後に、玉藻前は石となった。

 ◆

 きつね町の上空。誰よりも大きな狐――天狐の背中の上で、小珠は立ち上がる。
 今なら妖力の使い方が分かる。くるりくるりと何度か体を回し、雨降り小僧へと変化した。
 変化を習得するには相応の年月がかかる。それなのに小珠がいきなり変化したためか、気狐と野狐はその様を見てぎょっとした顔をした。
 雨降り小僧の姿は書物で見たことがある。それに、格好がからかさ小僧にやや似ているので模倣しやすい。想像し、創造するのが、変化だ。
 小珠は目を瞑って舞った。瑞狐祭りのあの日、狐の一族が行っていた舞いだ。不思議と体が覚えているような感覚があった。雨降らしの舞は、妖狐の一族が幼い頃に覚えるもの。玉藻前の感覚が小珠の中に移ったのだろう。
 小珠が舞うと、空に雲が集まってきた。

「嘘……他の妖怪に変化したところで、その妖怪の能力自体は真似できないはずなのに」
「こんな芸当ができるなんて、まるで玉藻前様だわ」

 気狐たちが口元を押さえて呟く。
 小珠は雨降らしの舞に加えて、雨降り小僧に変化してその妖術を使っている。こうすることでより広範囲に沢山雨を降らせると思ったからだ。

 小珠の計画通り、まもなくしてきつね町は土砂降りになった。
 ざあああああああ……と大粒の雨がきつね町の地面に打ち付け、あれほど町を破壊していた炎が徐々に消えていく。

 同時に、向こうに見える、町の象徴たる大木に、次々と花が咲いていく。

 ――……きつね町で久方ぶりに、瑠狐花が咲き初《そ》めた。

 新たに玉藻前の力を引き継ぎし者の妖力を吸収し、町の中心の大木の花が満開となる。
 それはまるで、新しい時代の幕開けを知らせるような開花であった。



次話:https://note.com/awaawaawayuki/n/nd2f3f52eaa5c


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