「狐と祭りと遊び上手と。」第十話
「あっははははははは!」
帰ってきて早々、何故こんなにも大きな声で笑われているのだろう。
広間で小珠の話を黙って聞いていた銀狐は、どうにも小珠の失敗が可笑しいらしく、腹を抱えて転げ回っている。
「妖力の使い方間違えて吹っ飛んで山に突っ込むて、狙っとんのか!? 大衆演芸でもそないな話聞かへんわ!」
「銀狐。失礼ですよ。仮にも一族の花嫁です。そう馬鹿にするものでは……ふっ……ふふ……」
銀狐に注意する金狐も笑いを堪えるように肩を震わせていて少し悲しかった。
小珠の両隣には、小珠の怪我の手当てをする気狐と野狐がいる。彼らは無傷だ。
「あの変なお札で切られた気狐さんと野狐さんは無事なのですか」
「わたくしですよぉ、それ」
隣の無傷の気狐が少しむっとしたように言う。気狐たちは複数体おり、皆同じ容姿をしているので見分けがつかない。
しかし、いかなる理由があっても間違えられるのは不愉快だろう。小珠は慌てて謝った。
「ご、ごめんなさい。やっぱりまだ見分けられなくて。妖力の違いを見分けられるようになれば分かるのでしょうけど、未熟者で申し訳ないです。あの時は守ってくれてありがとうございました。でも、足を切られたのにどうして……」
気狐の足は血で汚れておらず、そこにあったはずの傷もなくなっている。
「ふふ、怒ってませんよぉ。それに、舐めてもらっちゃ困りますねぇ。あの程度の怪我、妖狐ならすぐ治せます。小珠ちゃんも妖力を自在に操れるようになれば治癒もできるようになりますよ」
心底ほっとした。狐の一族には治癒能力があるらしい。妖狐のことを人間の常識で測ってはいけないようだ。
「二口女さんはどこにいるのですか?」
「小珠様への襲撃の知らせがあってすぐきつね町に戻らせたので外傷は一切ないのですが、精神的に疲れてしまったようなので、小珠様の部屋で休ませています」
妖怪を襲う存在がいるところに愛しい恋人がいると知ったのだから当然だろう。今、不安で仕方がないはずだ。
「……二口女さんの元恋人を町に連れ戻すことはできませんか? 今日、住んでいる場所までは分かったんです。あと一歩というところで……。妖怪を狙う人達が彼の噂を嗅ぎつけていてもおかしくありません。港町へいては危険です」
そう訴えると、空狐は険しい表情になった。
「それはできません。今回のことで、我ら一族、及び玉藻前様の生存の可能性を掴ませてしまいました。これまで以上にきつね町の外へ出るにあたっては警戒せねばなりません。明日にも町民には外出禁止令を出します。とはいえ、元々外が危険であることは周知の事実なので、自ら出ようとする妖怪は少数ですが……」
「海坊主さんのことは見捨てるということですか?」
そう聞けば、空狐がぐっと気まずそうに押し黙る。
「小珠はん、言っときますけど、海坊主いうんは、もう随分と昔にこの町を出た妖怪ですよ。僕たちに何かする義理はありません」
金狐が空狐を庇うように言った。
「……じゃあ……」
「あかん。空狐はんは小珠はんのことを心配しとるんやで?」
自分だけでももう一度行くのはどうか、と提案しようとした小珠の発言を予測したのか、言葉にする前に銀狐に止められる。
「そいつらは、かつて玉藻前様を誘拐した人間の末裔や。妙な信仰心がまだ残っとるとしたら、狙いは、妖怪の中でも最強と謳われる玉藻前様の妖力。それを受け継いどる小珠はんは、あいつらにとって利用価値ありありやし、獲物が罠にかかりにいくようなもんや。俺や野狐が行くんやったらともかく、小珠はんは一番行ったらあかん」
「…………」
「……とはいえ、何もせんっちゅうのは、納得できひんのやろ」
銀狐は無言になった小珠を覗き込み、見透かしたように笑う。
「しゃーないから俺と金狐で海坊主を迎えにいったる」
「でも、それじゃ銀狐さんたちが危険じゃないですか」
「俺らを何やと思てんねん。金狐様と銀狐様やぞ。その辺のちょっと特殊な力使える陰陽師になんて負けへんわ」
「……本当ですか?」
「おー。にしても、人間の町に下りるなんていつぶりやろ。かわええ女の子引っ掛けてこよ~」
頭の後ろで手を組み、上機嫌で口笛を吹く銀狐を、空狐が嗜める。
「何勝手に話を進めてるんですか。僕はそんな許可は出していません」
「小珠はんが行くより俺らが行く方が断然ええでしょ。なぁ、金狐?」
「……まぁ……小珠はんの頑固は今に始まった話ちゃいますし、結局迎えに行くことになるなら、最初から俺らが行くんがいっちゃん早い気はしますね」
真面目な金狐も押しに負けたように了承する。
空狐は少し不満そうに彼らを見つめていたが、しばらくして、低い声で言った。
「死なずに帰ってくると約束できますか?」
「空狐はん、俺らが死ぬと思っとるんですか?」
金狐が至極驚いたようにきょとんとしている。余程自分たちの力に自信があるのだろう。
空狐は真剣な表情で付け加えた。
「万が一の話です。彼らはあの玉藻前様を封印した人々の末裔。この時代の陰陽師は玉藻前様の時代より大幅に衰えているとはいえ、何が起こってもおかしくはない」
「え~何それ空狐はん。俺らに死んでほしくないのん? 寂しがりやん」
銀狐がにやにやしながら空狐の肩に腕を回してからかう。
「当然でしょう。僕が守りたいのは小珠様だけではありません。この屋敷に住む全員です」
空狐がさらりとそう返した。おかげでからかった銀狐の方が照れたように固まる。
「……まぁ、そこまで言うんでしたら、準備は怠りません。妖刀も持っていきます」
金狐も照れているようで耳が赤い。
「くれぐれも細心の注意を払うように」
空狐がそう指示する。それは、金狐たちがきつね町を離れることを許可する言葉だった。
「……ちゅーわけで、俺らは今夜から港町の様子見てくるけど。小珠はんは二口女はんの方見とってくれん? 想い人のことが心配で何しだすか分からんし。下手したらこっそりきつね町を出ていくかもしれん」
「はい! 分かりました」
銀狐に役割を与えられ、小珠は張り切って小走りで広間を出る。
その時、気狐がこそっと耳打ちしてきた。
「……あの、小珠ちゃん。明日辺り、二口女ちゃんが落ち着いたら、港で何かなかったか聞いてくれないでしょうか?」
「港で? どうしてですか?」
「今日、港町での聞き込みの途中から、やけに顔色が悪くなったのですよお。お食事も取りませんし。よく分かりませんが、町の人間から何か良くないことでも聞いたのかもしれません。わたくしが大丈夫ですか? と聞いても何でもないと誤魔化されまして……。小珠ちゃんになら打ち明けるかもしれませんので、よろしくお願いしますぅ」
小珠はこくりと頷いた。
廊下に出て、自室に向かっている途中、前方を歩く誰かの影が見える。
「あ、おばあちゃん!」
キヨだ。廊下を曲がろうとしているところへ駆け寄った。
人間に襲われたという知らせは受けているだろうか。心配させてしまったかもしれない。
この通り無事だよと伝えるために近付いたその時、――……キヨが倒れた。
「……え?」
昨日の夕食の時間まで炊事場で元気に歩き回っていたはずのキヨは、あの活力を全て使い果たしたかのように、苦しそうに息をしている。
「おばあちゃん!?……っおばあちゃん!」
大きな声で呼びかけ、その体を揺らしていると、小珠の声を聞きつけたらしい空狐が後ろから走ってきた。
「空狐さん……! おばあちゃんが!」
「――……」
倒れたキヨの体を確認した空狐は、眉を寄せて呟いた。
「ついに来ましたか。この時が」
◆
――……キヨが、寝たきりになった。
薄く目は開いているのに、まるで何も見えていないかのようにその目は濁っている。ぜえ、ぜえ、びい、と痰の絡んだような息の音が静かな室内に響く。
空狐がキヨを寝床に運ぶまで、動揺で言葉を発することができなかった。ようやく開くことができた口から出た声は掠れていた。
「どうしてですか? 昨日はあんなに元気だったのに」
「小珠様に、お伝えできなかったことがあります」
苦しそうなキヨから目が離せない小珠に、空狐が告げる。
「キヨさんのことは、妖力で元気にしているだけだったのです。我々に人の寿命を伸ばすことはできません」
「妖力での治癒は、一時的に健康体にするだけで、寿命そのものを伸ばすものではない、ということですか」
「はい。人間にも妖怪にも、等しく死は訪れます。妖怪の方が人間よりもうんと寿命が長いだけで、命の灯火が消える最期のその時に抗う力はどのような妖怪にもありません」
「…………」
何を期待していたのだろう。死は平等に訪れる。キヨは、病気がなくとも、年齢的にそう長くない。むしろ村の高齢者に比べれば長生きしている方だった。
「……妖力をもってしても、もう元気にすることができなくなったのですか」
「そうなります。こうなることは以前から分かっていました。保った方です。おそらく、本当にもう長くないでしょう」
「――どうしてそのことを、最初に言ってくださらなかったのですか?」
違う。空狐を責めるのは違う。分かっているのに、言いたくないことが勝手に口から出ていく。言葉が漏れ出ていく。
「この町に来たその時に、おばあちゃんの元気は仮初めのものだって、言ってくださればよかったのに」
ぽろぽろと涙が溢れた。
違う。違う違う違う違う。こんなことを言いたいわけじゃない。キヨが元気になってくれて嬉しかった。仮初めの残り時間を作ってくれたのは、他でもない狐の一族であり、恨み言を言うなんてことは間違っている。自分はただ――……どうしようもない事態を受け止めきれずに、八つ当たりがしたいだけだ。
「……ごめんなさい。本当にごめんなさい。少し……一人にしていただけませんか」
このまま一緒にいれば、空狐を理不尽に傷付けてしまう。
そう思い、泣きそうになるのを堪えながら、必死にそう伝えた。
視界が涙で滲んでいく。
床に膝をつき、キヨの頬に手を重ねた。声をかけても反応がない。息をしているのに意識がない。もう二度と会話を交わすことは叶わないかもしれない。
(私は、馬鹿だ)
人は慣れる。慣れてしまう。今ある状態がいつまでも都合良くそこにあると勘違いする。
(折角天狐様達が与えてくれた猶予を、私はうまく使えてた?)
キヨと共に過ごす時間は、一日のうちで極少なかったように思う。キヨのためにきつね町へ来ることを決めたのに、いつの間にか、自分中心の生活を送っていた。
一緒に畑仕事をした。一緒に炊事をした。でも、それだけだ。村にいた頃の方がキヨに付きっきりだった。キヨが元気であることに甘えて、いつか失うかもしれないなどとは考えなかった。――また、同じ過ちを犯している。
泣き崩れる小珠を、覆い被さるようにして抱き締める温もりがあった。
「……どうしてまだいるんですか」
小珠は顔だけで振り向き、空狐に暗に出ていけと訴える。
「泣いている貴女を放って、僕がどこかへ行くと思いますか」
「一人にしてって言ったじゃないですか……っ! 空狐さんに、意地悪なこと言っちゃう」
「構いません。貴女を一人で泣かせるくらいなら、当たってもらえた方がいい」
小珠はひくひくと啜り泣く。空狐を押し退けるように腕に力を入れるが、その体はびくともしない。小珠を一人にしないという意地を感じた。
小珠は観念し、泣きながら向きを変え、前から空狐に抱き着く。どうしようもなく安心する香りが小珠を包み込んだ。
「う、ううっ……」
空狐の胸に顔を埋めて泣きじゃくる。
空狐は小珠が泣き止むまで、ずっと小珠のことを力強く抱き締めていた。
*―――**―――**―――*
(……どうして僕は、最初から小珠様に伝えられなかったのだろう。こんな重要なことを)
外に大きな月が浮かんでいるのを見上げながら、空狐は先程小珠にぶつけられた言葉を反芻していた。
空狐の腕の中には、さっきよりも少しだけ落ち着いてきた小珠がいる。その様子を見てほっとした自分がいることに気付いた。
(ああ、そうか。見たくなかったのだ――この子の哀しむ顔を。この子を傷付ける側に回りたくなかった。後回しにした。いつか伝えねばならないことだと、結局最後には傷付けると分かっていたのに)
この涙は後回しにした代償なのだと、空狐は思う。
その昔、小珠がまだ幼い頃、狐の姿で小珠の村に出向いたことがある。
玉藻前の生まれ変わりとしてこの世に生まれたその瞬間、次期当主である空狐との結婚を定められた少女。ただその様子を少し見に行くつもりが、不注意で獣用のくくり罠に引っかかってしまった。
その時、捕まった状態の空狐を見つけ、助けてくれたのが小珠だった。
妖力を使えば罠から抜けることは容易かった。しかし、小珠の前で力を使うわけにもいかず、大人しくしていた。
その日は「早くお逃げ」と言われて帰るしかなくなってしまったため、小珠のことを十分に観察できなかった。
後日改めて村へ赴くと、小珠は隠れている狐姿の空狐のことをまたすぐに見つけてしまった。
――「もう、また来たの? 不用意に人のいる村に来ちゃだめだよ。また罠に引っかかったらどうするの」
小さな小珠は文句を言いながらも、狐の姿でいる空狐のことを何やら可愛く感じてしまったのか、取ってきた木の実や果実を与えてくれた。
小珠は優しかった。まるで誘拐される前の玉藻前のようで、昔のことが懐かしくなった。
幸せだった過去。天狐がまだ元気に動いていて、玉藻前はまだ無邪気な少女だった。玉藻前が誘拐されたことによって、全てが変わってしまった。もう戻らない過去だ。
空狐はその後、過去を懐かしむような気持ちで、時折小珠の家まで遊びに行くようになった。
――「おばあちゃんがね、よく妖怪の話をしてくれるんだ。山の向こうにきつね町っていう町があって、そこには妖怪が住んでるんだって。昔は人と共存してたらしいけど、時代と共に一箇所に逃げて、固まって生活してるんだって」
何度か通っているうちに、小珠はよく空狐に話しかけてくれるようになった。その中でも妖怪の話をされると、正体がばれてしまうのではないかとどきどきした。
――「妖怪なんて本当にいるのかなあ。私は見たことがないから不思議だけど、村の人達はみんな信じてるんだよね。昔はほんとにいたんだって」
妖怪の存在は、新しい世代の人間ほど知らないだろう。あの頃人の町で暮らしていた妖怪たちも、共存が難しくなってからは皆、きつね町に逃げ込んだからだ。滅多に人里には降りない。
きっと新しい世代である彼女たちの中で妖怪は、ただの伝説のようなもの。
(……僕と彼女ではまだ、立場が違う)
人として育った小珠。妖怪の町で一族の次期当主として育った空狐。小珠がいずれきつね町へ連れ戻されるとはいえ、今はまだ関わる必要のない存在だ。
(嗚呼、でも――この子の腕の中は安心する)
小珠は、激しい暴力を振るい、罵り、逆らえば仕置きとして腕を焼いてきた玉藻前の生まれ変わりだというのに、その手はあの暴力的な手とは違う。空狐は、小珠の優しい手で撫でられるのが好きだった。
頻繁に人里へ行くことを天狐に注意されたので、その後はあまり行かなくなった。最後に村へ向かったのは、村で瑞狐祭りが行われた日だ。
迷子になってぐすぐすと泣く小珠の小さな手を引いた。本当は村で人間の姿になるつもりはなかったのだが、狐の姿では小珠を導けない。人間の大人の姿の方が小珠も付いてくるだろうと思った。
手を引いて歩いていると、狐の姿で接している時には気付かなかった小珠の幼さに気付く。
(まるで普通の小さな女の子だ)
狐の姿で会っていた時とは目線も違う。こうして見下ろすと酷く小さい。
(……僕が守ってあげなければ)
不思議とそんな庇護欲を覚えた。
その後、祭りの中心部に小珠を連れて行った空狐は、狐の姿に変化し颯爽と消えた。
十八になれば、また迎えに行くことを決意しながら。
――その次の雨の日、空狐は妖狐の一族を引き連れて、キヨに挨拶をしに行った。空狐たちを見てもキヨは驚いた様子もなく、淡々と畑仕事を続けるのみだった。
彼女は妖怪の伝説を信じている。妖怪が来たところで何とも思わないらしい。
「十八になれば、小珠様は我々の屋敷に連れ帰ります」
一方的な言い分だ。我が子として育ててきた子供が妖怪だなどと、そうすぐには受け入れられないだろう。
少し考えさせる時間が必要だと思い、踵を返して去ろうとした空狐の背中に、キヨが言う。
「まったく、最近の若いもんはうるさいね。わしがあんたたちに聞きたいのは一つだけだ」
生きてきた年数自体は空狐よりもずっと短いはずのキヨに若者扱いされたことに違和感を覚える。しかし、その威厳は相当のものだった。
「あの子を幸せにしてくれるのかい」
手を止めて空狐を見つめるキヨの射抜くような視線に、周囲の野狐が怖気づいたように僅かに震える。
空狐はしばらくキヨを見つめ返した後、覚悟を決めて返した。
「連れ戻す責任は全て僕が取ります。少なくとも不幸な思いは絶対にさせない」
おそらく狐の一族の中で空狐だけが、この時の小珠を玉藻前と同一視していなかった。
玉藻前と同様の道を歩む危険性を孕む、どちらに転ぶか分からない少女。けれど危険を犯してでも連れ戻したいと最初に願ったのは空狐だった。
キヨがにやりと笑う。
「その意地は恋か」
「……恋?」
意味が分からず眉を寄せる。
「なんじゃ、恋もしたことがないのか、あんたは」
それなりに遊んだことはあるが、恋というのはよく分からない。
「まだまだ若いのう」
「……お言葉ですが、僕の方が貴女よりも千年以上長生きをしていますよ」
むっとしてそう伝えると、キヨはがっはっは!と妖怪も顔負けの大きな声で笑い、「いいよ。可愛い子には旅をさせよ、じゃ。いつまでもこの村にいることが小珠にとっていいことだとも思わん」と許可してくれた。
キヨのあの時の化け物のような、豪快すぎる笑顔を思い出す。
現実に戻れば、部屋の真ん中には、未だ苦しそうに息をするキヨが横たわっている。
(早すぎますよ。キヨさん)
元々、もう長くはない状態ではあった。きつね町の医者と狐の一族の屋敷に充満する妖力のおかげでぴんぴんしていたとはいえ、いずれ来る自分の限界は本人が一番感じていただろう。
(貴女の言う通りでした)
傷付けたくない、笑っていてほしいと思う気持ちが恋であるならば。キヨの言っていたことは正解だ。
(生きた年数など関係ない。きっと貴女の方が大人だった)
小珠が泣いている。それはどれだけキヨが小珠を大切にしていたか、真っ当に生きるよう育てたかを示しているようだった。
*―――**―――**―――*
心を落ち着かせることができるまで、長い時間がかかった。二口女の様子を見てこいと言われていたことを思い出して立ち上がる。部屋は隣だ。
酷い顔をしていないかと思い手鏡を手に取ると、真っ赤になった目が映る。二口女がまだ起きていたら何かあったのかと心配されてしまうだろう。
(こんな夜更けじゃもう寝てるか……)
できるだけ音を立てないように廊下に出た。
空に月が見えない。曇天のようだ。
空狐は、キヨの状態に変化があればすぐに知らせに行くと言ってくれた。もっとも、あの状態からの変化など、死の他にはない。そう思うとまた悲しみに包まれた。
しっかりしなければならない。キヨに、蹲って泣き続けるような人間になれと育てられたことなど一度もないのだから。
襖を開けると、広い部屋の隅に二口女が三角座りしていた。驚いて「わっ」と声をあげてしまう。
「……まだ起きてたんですね」
「眠れなくて」
二口女が短く答えた。
二口女も大切な人が危険な状態なのだ。眠れるわけがない。
「明日、銀狐さん達が港町に海坊主さんを探しに行ってくださるそうです」
「…………」
「連れ戻そうとしてくださっていて」
「…………」
二口女が何も反応を示さなくなった。暗闇の中、その表情はよく見えない。
何とか二口女を安心させなければと必死に説明を続ける。
「金狐さんと銀狐さんはとてもお強いようなので、きっと変な人達が海坊主さんに何かしようとしたとしても守ってくれますよ」
「……小珠」
「はい!」
「もう遅いわ」
「え?」と聞き返そうとするより早く、二口女が着物の中から取り出した短刀で小珠の足を切りつけた。
状況が理解できないまま、床に崩れ落ちる。山に落ちた時にできた怪我の部分を刺されたため、痛みがぶり返してきた。
「わたし、小珠と友達になれて良かった」
――二口女が泣いている。ようやく表情が見えたかと思えば、その顔は苦しそうに歪んでいた。
「本当は、こんなことしたくなかったの。ごめんなさい」
震える声で何度も謝りながら、ぐさりぐさりと何度も小珠の足を切りつけてくる。痛みよりも何よりも、二口女の行動が信じられず声も出ない。
畳にどろりと小珠の血が染み込んでいく。
「でももう、こうするしかないの」
「……ぁ……え……何で……」
「――そうだ、うまいじゃないか。妖怪を捕まえる時はまず足からだ。足を封じて逃げる手段を一つ奪う。よくできる、いい子だな」
二口女の後ろから、昼間に見た黒髪の男が現れた。襖の向こうからではない。二口女の背後にあった掛け軸が、人間の姿になった。
妖怪ではないのにこんなことができるというのか。これこそが陰陽師の術なのかもしれない。
しかし、どうやってきつね町に、それも狐の一族の屋敷に入り込んだのだろう。からかさ小僧が、狐の一族の屋敷は常に野狐が見張っておりそう簡単に侵入できるものではないと言っていた。それなのに。
「その女に手引きしてもらった。なぁに、俺達の使う式神を一匹、懐に忍ばせてもらっただけさ。それさえあれば俺達はきつね町の正確な位置が分かる。式神を通して転移することもできる」
黒髪の男が、小珠の疑問に答えるように言った。その顔には不気味な笑みが貼り付けられている。
「……どうして……」
小珠はもう一度二口女を見つめた。
ただでさえキヨのことで苦しかった心が、二口女の裏切りでもっと重たくなっていく。
「……こうすれば、海坊主を、返してくれるって言われたの」
血が抜けていく。気持ちが悪い。動悸がする。二口女の言い分が聞きたくて、必死に意識を保とうとする。
しかし、小珠の意識はどう頑張っても、次第に遠退いていった。
◆
目を覚ませば、身動きが取れない状態にあった。両手両足を縄で縛られている。
「おお、起きたのか」
何もない部屋の隅の椅子に、黒髪の男が座っていた。
ここは一体どこなのだろう。狐の一族の屋敷ではないことだけは分かる。
「血が止まらなかったから、応急処置はさせてもらった。お前、自己治癒もできないのか。本当に玉藻前か? しかし、気配は玉藻前なんだよなあ……」
男は自身の髭を触りながら、不思議そうに首を傾げる。
散々刺された小珠の足はいつの間にか包帯でぐるぐる巻きにされていた。
(命を奪うつもりはないの?)
わざわざ血を止めてくれたということは、男の目的は小珠を殺すことではないのだろう。
「俺は法眼《ほうげん》。千年以上前から続く陰陽師の家系の人間だ」
「私は貴方達が探している玉藻前じゃない」
「ああ、分かっている。玉藻前を封じた石まで確認しに行ったが、そこには死体があるだけだった。お前は生まれ変わりなのだろう? 妖狐は何度でも生まれ変わる」
法眼はくっくっと笑いながら、横たわる小珠にゆっくりと近付き屈んだ。
小珠はすかさず知りたいことを聞く。
「海坊主さんは貴方達が捕まえているの?」
「いや? 捕まえてねえよ。もうちょっとのところだったのは確かだが、あいつは逃げ足が速い」
「……二口女さんには、言うことを聞いたら返してやると脅したのでしょう?」
「おー、そうだな。簡単に騙されてくれて助かるよ」
法眼がけらけらと笑う。
その態度に怒りがふつふつと湧いてきて、ぷっと法眼の顔に唾を吐きつけた。
「あ?」
法眼の顔から笑みが消失する。
次の瞬間法眼は立ち上がり、小珠の腹を蹴り飛ばした。小珠は呻く。
「生意気だな。二口女の方は大人しくて馬鹿で、扱いやすくて可愛かったのによ」
「二口女さんを悪く言うな」
「はぁ? お前、裏切られた身のくせに何言ってんだよ。まだ現実見えてねーの?」
「裏切らなきゃいけない状況にしたのは貴方でしょ!」
小珠が怒鳴ると、法眼がまた小珠を蹴り上げた。小珠は両手で身を守ることもできない。
「妖怪の分際で、人間様に噛み付いてんじゃねぇ。いいか? お前らは家畜と一緒だ」
「……どういう意味」
「この世は人間が一番偉いんだよ。妖怪は大人しくその妖力を俺達に差し出せばいい」
法眼が小珠の頭を押さえつけ、床にぐりぐりと顔を押し付ける。
「特に、玉藻前の力を持つお前。お前さえいれば俺達の一族は権力を取り戻せる。千年かけて陰陽師の力は衰えていった。玉藻前、お前が死んだ時からだ。俺達の先祖はお前の利用価値を見誤った。お前の力を利用して栄え、お前を逃し、今度はお前が人間に害をなすと判断して封じた。だがそれは誤りだ。誰よりも膨大な玉藻前の妖力は、いつまでも利用すべきだったんだ」
――妖力を利用する人間もいる。銀狐が言っていた通りだ。
「陰陽師の使う呪術というのはな。あやかしの力を人間も使えるように抽出し利用する術のことだ。元がなければ衰えていく」
「私を力の源にするつもり? 私はまだ妖力をうまく扱えない。残念ながら、貴方達の役には立てないよ」
妖力をうまく扱えたとしても、こんな連中のために力を使うのは御免だ。
しかし法眼は小珠の言葉に全く動じずに、にやりとまた口元に孤を描く。
「玉藻前をさらった時の記録にもそう書いてあった。まだ幼い玉藻前は妖力をうまく扱えなかったと。その時は――」
法眼が血で汚れた短刀を取り出し、小珠の腹部を切りつけた。
「こうしていたらしい」
血が噴き出す。二口女に切られた時の血の流れ方とは明らかに違う。
「治せ」
「ぅ……っ」
「妖力の成長は死に瀕した時が最も大きく、効率がいいという記録がある」
「ッ……」
「ほら、さっさと妖力を使って治せよ。出血多量で死ぬぞ」
「ぁ、ぐ……」
ぐらぐらと視界が揺れる。
(玉藻前は、ずっとこんな目に……?)
脳裏を過ぎったのは、夢の中、人のことが憎いと言っていた玉藻前の姿だ。
(こんなの、人間を憎んでも仕方がない)
小珠の中の〝人〟は、キヨだ。
しかし、幼少期から妖怪と暮らしていた玉藻前は人間というものを知らなかったはずだ。そんな中、人間からこんな扱いを受ければ――人間はこういう存在なのだと思ってしまってもおかしくない。
(玉藻前……貴女は……)
法眼が何度も切りかかってくる。
恐ろしい。きつね町で初めて人間とは姿が異なる妖怪を見た時だって、こんな恐怖は感じなかった。身を捩って逃げようとしても逃れられない。どこまでも続く地獄の中に入り込んでしまったような心地がした。
次話:https://note.com/awaawaawayuki/n/nefb732e869dc
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