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遠く離れて(7)

こんにちは。
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一つ前の記事はこちらです。
よろしければご覧くださいませ。

|望み

子供の頃、『まんが日本昔ばなし』がとても好きでした。

テレビはもちろんのこと、のちに発行された5冊で1巻の絵本を、飽かずに繰り返し繰り返し読んでいました。

その中のひとつに、『ききみみ頭巾ずきん』というお話があります。

ストーリーはもうあやふやですが、たしか主人公のおじいさんがキツネの仔を助けたことでもらった頭巾。それをかぶると鳥や動物、森の木などが話していることがわかるというもの。おじいさんは、原因不明の病に臥せっていた庄屋さんか誰かの娘御をその頭巾を使って森の動物から聞いた情報を使って助け、ハッピーエンドになるといったお話だったように思います。

昔ばなしに出てくる道具というのは往々にして子供にとっては魅力的。

ドラえもんの道具にはあんまり興味がない子供でしたが、身近に動物がたくさんいたことや一人で野外で遊ぶことが多かったことから、私はどうしてもこの”ききみみ頭巾”が欲しいと強く思っていました。

大人になるにつれそんなものはファンタジー世界だけのものとわかってきます。

そんなこともあってずっと忘れていたのですが、あるとき、テレビでアニマルコミュニケーターさんが出ているのを見て、頭巾がなくても動物と話ができることを知りました。
ただし外国の方だったこともあり、大人の諦めというかそういう先入観もあって遠い世界の話と思っていたのですが、数年前にご縁をいただいた方が実際に動物とコミュニケーションを取れることを知って、そりゃもうものすごく自分もそうなりたい!と思うようになりました。

カラスやスズメや猫の考えてることがわかったらどんなに楽しいだろうと思ったり、一方で、人間にものすごく怒ってたりするんじゃなかろうかと怖くもありましたが、まぁそんな心配する以前に、とりあえずなんにも聴こえません。聴こえないのだから怖がる必要もないんじゃないかと思いつつ、聴くという希望は捨てていないということでしょうか。

どうしたものかと結構真面目に考えていて、ふと思ったのが、このエゴと執着を手離さないことには決してそのようなエア”ききみみ頭巾”はもらえないのではないかということ。

エゴや欲、執着の強い人がそんな急に動物と話せるようになったら、えらいこっちゃ〜、抹茶に紅茶。

(ははぁ、これを手離さないことには無理なんだな…)

いや、手離しても普通は無理だと思うよ、と自分にツッコミつつも、亡くなった愛猫やかつて時間を共にした生きものたちと話したくて、余計なものを手離す方法についてあれこれ思いを巡らせていました。

|エゴの手放し方

私のエゴが全開になるモトはなんだろうかと考えたとき、それは「欲」だなと思いました。

ただ、欲というのは、全く無いというのも人間としてどうなのかと思います。こうしたい、ああしたいと思うからこそ物事がグッと進むのだし、経済も回していくのに欲は必要。人間なら誰もが持っていて当然のものというか生まれながらに備わっていて、それは人間として生きていく上での推進力でもあると思うのです。

そんな「欲」にはいくつか種類があるように思っていて、エゴのモトになるのは我欲とでもいうのかなと考えます。自分以外の他のもののための欲ではなく、自分のためだけの欲。じゃあ自分を甘やかすのはエゴですかと訊かれるとそれはたぶんエゴではなくて、エゴというのは、他のものを蹴落として自分のためになるものを得ようとしたり、他から奪いにいくものであったり、他のものの意向を無視して自分のためだけにしてしまうような振る舞いや行い、なのかなと思っています。

なので、エゴに関しては比較的手放しやすいというか、自分で気をつけて気づいていれば、エゴを出さないようにするというのはさほど難しくない感じ。でも全然手放せていませんけど。(←説得力ゼロ)

|執着の手放し方

一方、私の執着を引き起こすモトは何かといえば、それは「恐れ」や「不安」だと思っています。
自分のことしか検討していないので、他の方がいったいどうなのかはわかりませんが、もし皆様に執着心というものがお有りだとしたら、そのモトってなんだろうと興味があります。

そんな、私の執着心のモトになっていると思われる「恐れ」や「不安」の手放し方を考えたとき、私に語ってくれた師匠の言葉が一つ、頭に浮かびました。
正確な言葉は覚えていませんが(覚えてないって言っちゃった)、内容としたらこんな感じ。(と言いつつ、なんか勘違いして覚えている可能性が無きにしもあらず…)

曰く、
「今、目の前にミサイルが落ちて世界が終わったとしても動じない」

うーん、男前。
カッコいいなと思いました。
地球の反対側までしっかり根を下ろしているような、そんな深いグラウンディング。

どうやったらその境地に到れるのかと考えを巡らせたとき。
あ、と思いついたことがありました。

「……意図すればいいんちゃうん…。」

そもそも不安や恐れのある状態というのは「今ここ/今この瞬間」には決して意識がありません。
まだ起こってもいない未来のことを、なんとなく不安だ、とか。
過去の経験に照らして、きっとこうなるに違いない、とか。

未来や過去に意識がとらわれてしまっている状態。

恐れや不安が先か、とらわれが先かという話にもなってきます。
この悪循環を断ち切るには、結局のところ、自分で「大丈夫」と決めて、そう意図するしか、しようがないのではないかということ。

未来のことなどどうなるかわからないのだから心配しすぎても無駄なこと。
むしろ未来は「今」の瞬間が連続した先にあるもの。
その未来を創るのは、間違いなく大丈夫な「今」の積み重ね。

今この瞬間瞬間を「大丈夫」と、そう意図することによって、未来はあっさり大丈夫になってしまう面もあると思います。

信じるも信じないも自分次第。
信じられないとすれば、それは「今この瞬間」に意識がないからかも。

もう一つ、なにが起こっても全ては最善の結果であると覚悟を決めていれば、それこそ何も怖いことなどこの世にはないのではないだろうかと思います。
そんなこと、すぐに忘れて即また恐れや不安にとらわれては執着するのですけれど…。そこは日々修行。自分でその都度その都度しっかり意図していって、どうにかするものなのかしらと思っています。

少なくとも私にとっては、執着の手放しは恐れの手放しと同じこと。
どちらかを手放せば、もう一方も必然的に離れてしまうもの。
恐れを手放せば、執着がなくなる。

そうなったら最強ですね。

ただし、どうにかしなくちゃ、というと、これもまた一種の執着。
こだわりと言い換えてもいいかもしれません。
こだわりがいいとか悪いとかではなく、何事も行き過ぎるとかえって執着になり得ますよ、ということ。エゴの手放し方で触れた「甘やかし」についても同じかもしれません。時には逃げからの甘やかしもあっていいのだと思うけれど、そればかりになるとアンバランスになって、かえっていつまでも満たされはしない感じ。

執着のエネルギーというのはこれまでの記事を読んできてくださった皆様にはその重さをお感じいただけたかと思います。こんなふうに、相当重くなるので、こうしなくちゃ!というよりは、まぁ人間だもの、と軽やかに緩やかに取り組むのがいいのだろうなと感じています。

とはいえやはり大切な存在を失うというのは、考えただけで恐ろしいものです。(オイ)

街路樹の陽光桜

|家族

ところで、この一連の記事のなかで、私は「猫」としか表現しませんでした。名前がないわけではありません。

愛猫の死後、「子供」から、愛猫の画像などもしネット上に載せていたらすぐに削除してほしいと言われました。そのため、以前の記事内で出したことがあるものは、画像を差し替えています。

削除してほしいとまで言う真意については分かりません。

ただ、おそらくそれほど大切に、自分だけの特別な存在として想っているのだろうと想像しています。なので名前についてはあえて伏せました。

「子供」とはいえ成人している子供です。

高校入学後に不登校となり、そのまま退学しました。
以来、長いか短いか一概に言えませんが、それなりに長い期間をほぼずっと家で過ごしています。ずっと家にいて、同じくずっと家にいる猫と、猫が私と寝る深夜〜早朝を除いては、残り全ての時間をほぼ共に、濃密に過ごしてきました。

私がフラワーエッセンスの凄さというものを体感して驚き、その後ほぼ間を置かず衝き動かされるように四国から東京まで通ってカウンセラーにまでなってしまったのは、この子供との関係においてのことが大きなきっかけの一つでありました。

そして、この猫が逝ってしまったのは、家から出なかったこの子供が、家を離れて一人暮らしを始めようかという、まさにそんなタイミングでの出来事でした。

私たちが暮らす家は、犬猫の飼育禁止マンションです。
戸建に住んでいた時に飼い始め、やむを得ない事情で現在の住まいに転居しました。その際、譲渡や処分などとても考えられず、一部のご近所の方にのみお断りをし、それ以外には黙って飼っていました。

ですので鳴き声で飼育を知られることを怖れ、なるべく鳴かせないようにして暮らしてきました。しかし人間に換算して60歳が近くなってきた一昨年後半あたりからなにかと鳴くことが増え、声もますます大きくなっていました。

とりわけ、人の気配がしなくなると呼び鳴きをします。鳴くのもコミュニケーションの一つですから、これは自然なことです。

けれども、知られると一緒に暮らせなくなるかもしれないという最悪の事態を想定し、また、恐れ、猫が鳴くことに対して子供と私は神経を尖らせていました。私が家を空けることが多いため、猫の面倒を見るのが、いつからかこの子供の役割になっていたとも言えます。

今年に入ってからは、お互いに神経をすり減らしていたと言っても過言ではないほど。気をつかうことに疲れ始めてもいました。

そのような状況のなか、子供はこの春、当地を離れ新天地での新しい生活に向けた第一歩を踏み出そうとしていました。

数年前の私たちの様子からはとても想像できないほどの、大きな大きな一歩になるはずでした。

子供がいなくなったあと、猫はどうしたらよいのだろうか。
そんなことも私は不安に思いながら考えていました。

昨年の暮れには、ある身内の住まいを火急探さねばならなくなる騒動があり、それならば私たちがペット可の物件に引越して、今の私たちの住まいをその身内に使わせてはどうかと、10軒以上の物件を見て回りました。
しかしながらどれも今ひとつしっくりこず、結局決められないまま時間ばかりが過ぎ、そうこうしているうちに事態が急展開して結局私たちは引っ越さなくてよくなりました。

ただし猫の方はこの頃からさらに鳴き声は大きく頻回になり、寝ているとき以外は誰かが側にいないと鳴くことが増えていました。

(これではいざ歳を取って病気になっても動物病院に連れて行きにくい…)

(この先子供が家を出て私だけになったら、いよいよ家を空けられなくなる…)

(本格的に仕事を入れようにも今の状況では長時間家を空けられない…)

他の人にとっては些細なことかもしれません。
実際には私にとってこの悩みは深く、ほんの一閃、恐ろしいことが浮かんだりもしました。

(もし猫がいなかったら…)

そんな悲しいことはないと慌てて打ち消しますが、「思ったことが光速で具現化する」ということも同時に浮かんで、とんでもないことを思ってしまったと、また不安に襲われたりもしました。

そんな思いがあった直後の急な旅立ちだったこともあり、失ったときの混乱や後悔はより一層深いものになってしまいました。

最後にもう一編だけお付き合いいただければ幸いです。
読んでくださってありがとうございます。

この続きはこちらです。


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